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【第7話③】物語が始まる。3
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目下の日常は、本を読むことだった。
ソファーの下に腰を掛けて、ノートパソコンを開く。数日前、ネットサーフィンをしていて、ネット小説というものがあることを知った。最近は、インターネットを使って、小説を書きたい人が作品を投稿しているらしい。
国近は好きなものを買っていいと言っていたし、その「好きなもの」の中には小説も含まれているのかもしれないけれど、美斗はほとんど物を買わなかった。
この家は借り物の家だ。あまり私物が増えるのは良くないだろう。今だって、国近が届けてくれる小説が積み重なって、リビングを圧迫している。
それに、生活に必要なものは相変わらず国近が定期的に送ってくれるので、他に必要なものもなかった。。
試しにある作品を読んでみたら面白かったので、最近はずっと投稿サイトを漁っている。
*
そんな日々が過ぎたある夜。美斗は夢を見た。
それは、いつか思い出した、家族旅行の夢だった。
あの日、旅館で父が原稿用紙を一枚くれた。すぐ済むから、その裏に絵を描いて待ってて、と言って。
父の様子を眺めながら、自分の知っている文字を書く。母が、「何をしているの?」と優しく聞いた。
『お父さんの真似!』
と、美斗は答えた。柔らかく、両親が笑う。
『俺ね……』
『俺、大きくなったら』
『大きくなったら』
『父さんみたいな小説家になりたい』
そこで、美斗は飛び起きた。はっ、はっと肩で呼吸をする。動機が鳴り止まなかった。
ベッドの右側。真っ暗闇の部屋の窓の向こう。土砂降りの雨が降っていた。寝つきが悪かったのは、このせいかもしれない。
うっ、と美斗はこめかみを押さえた。
脳みその最奥の部分から、『何か』が流れこんでくる。
直感的に美斗はそれの正体が分かった。
しばらくして、そっとベッドから下りる。リビングに向かって、ソファー下に腰を掛けると、ノートパソコンを開いた。
中学の授業で、タイピングソフトの使い方を習った。まだ、覚えていた。
暗闇の部屋に、パソコンのブルーライトが光る。
キーボードの上に指を乗せたまま、数秒美斗は考えた。
いける、とは思う。収入に繋がるかは分からない。
いや、そんな大層なものは端から望まない。
今はせめて、外との繋がりが欲しい。
今よりももう少しだけ、彼の隣で胸を張っていられるように。
まっさらなページの一行目に、美斗はこう綴った。
『陽の当たらない春を探して』
*
国近肇が事の詳細を聞いたのは、それから数か月の月日が経った頃だった。
年が明けて、季節はもうすぐ春を迎えようとしていた。もうすぐ、美斗と出会って一年になる。
最近は須藤家の見張りもめっきり少なくなって、美斗と過ごせる時間も長くなっていた。
その日は、国近が帰宅した時から、美斗はどこか罰が悪そうな、何か言い出したいことがあるようなそんな表情をしていた。
夕食後。堪りかねた国近が美斗に問いかける。
すると、彼は少し悩んで、それからソファーの下に座ると、ノートパソコンを開いた。
慣れた手つきであるサイトにアクセスする。
それは、とある小説投稿サイトのようだった。その中の作品の一つをクリックする。
作品情報が表示された。
ブックマーク数・6322件
感想・24件
と表記がされていた。
国近はネット小説に造詣が深いわけではないので詳しいことは分からないが、どうやらその作品は、そこそこ人気の作品らしい。
読者が作品を評価するシステムになっているらしい。ブックマーク数と感想件数の横に、
総合評価・26864pt
評価ポイント・16220pt
との記載があった。
はて、と首を傾げる。その小説がいったいどうしたというのだろう。
近頃、美斗はオンライン小説にハマっているらしい。時々、パソコンを開いて小説を読んでいることがあった。しかし、それを国近に見せる理由が思いつかなかった。
すると、美斗が言った。
「俺が、書いたんだ」
え、と国近は美斗の顔を見つめる。
美斗は気恥ずかしそうに視線を外した。
言いたいことはそれだけではないようだ。
美斗は画面に向き直り、もう一度パソコンを操作した。レイアウトが変わる。
そこは、どうやら作者のマイページになっているらしい。マウスを握り、手紙のマークが表示された部分をクリックする。
真っ白な画面に、こんな文字が表示された。
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メッセージ
突然のご連絡失礼いたします。
私、株式会社四葉出版 文芸編集部の都築 侑馬と申します。
サイトに掲載されている小説『陽の当たらない春を探して』を
ぜひとも弊社で書籍化させていただきたくこの度ご連絡をいたしました。
つきましては、詳細をPDFファイルにて添付いたしました。
ぜひ、ご検討いただければ幸いです。
それでは、また後日改めてご連絡させていただきます。
良いお返事をお待ちしております。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
全文を読んで、国近は顔を上げる。
「ごめん。勝手なことをして」
と、美斗が言った。
そうか。ノートパソコンを開いていたのは、小説を読むことだけが目的ではなかったのか。
自分のいない間に、こうして文章を書いていたのかもしれない。
ふっと、国近は表情を緩める。心の底から、彼の成功が嬉しかった。
「断るなら俺は止めないけれど、でも美斗はやってみたいんじゃないのか」
彼のことだ。本当に断るつもりなら国近に相談しないで一人でカタをつけていたはずだ。
それをしないのはきっと――。
きゅっと、美斗は唇を結んだ。
「ハルト」
そんな様子を見て、国近は呼びかける。
「できる、できないは別として、やりたいことをやりたいと口に出すのは、そんなに悪いことじゃないよ」
こういうことに詳しい人間なら一人だけ当てがある。彼なら、頼んでも嫌な顔はしないだろう。
少しの間、間があいて、美斗は小さく唇を開いた。
「……そうか。俺は……やってみたいのか」
そう、自分に言い聞かせるように言った。
*
数週間後。都内某所。
学生街の近くに構えた喫茶店で、一人の男が人を待っていた。その男――都築侑馬はある出版社の編集者である。アイドルタイムの店内は静かで、客足はまばらだった。暇を持て余したウエイトレスが、奥の厨房にいる男と楽しそうに話している。
窓側の、店の一番奥に腰を掛けた都築は、落ち着かない様子で店内を見回していた。
今、都築はある作家と待ち合わせをしている。その作家は、ある投稿サイトで小説を投稿していた作家だ。出版経験はなく、小説を書いたのも投稿していた作品がはじめてだという。その作家に、都築は書籍化の話を持ち掛けた。
近頃は文学賞よりもインターネットを経由してデビューする作家が増えている。都築の勤める四葉出版でも、ネット上で注目を集めている作品をチェックすることは重要な業務の一つだった。そうした業務の中で、都築はその作家に出会った。ペンネームを『初野春』という。年齢は二十代の前半らしいが、他に詳しい情報は聞いていない。
今日は、その『初野春』とはじめての顔合わせをする予定だった。
都築は再びきょろきょろと辺りを見回した。
編集者になって早十数年。三十路もとうに過ぎたけれど、はじめて作家に会う瞬間は、何度経験しても緊張する。
やがて一人の青年が都築の目の前にやってきた。
灰色交じりのくすんだ髪をした、精悍な目つきをした青年だった。立ち上がり都築が名乗ると、礼儀正しく会釈をした。
サイドの髪のひと房を耳にかける。
そして、
「司法修習生の柏木大志と申します」
と名乗った。
それから、遠慮がちに都築の目の前に腰を掛ける。
都築は青年の顔を数秒眺めた。見るからに聡明そうな顔立ちだ。ピンと張った背筋が美しい。こんなに知的そうで堂々とした青年が現れるとは意外だった。都築が読んだ小説は、論理的な部分よりも感情的な部分が多い作品だ。書いた人間は彼よりももっと、繊細で潔癖で、神経質そうな人間を想像していた。
『柏木大志』というのは、彼の本名なのだろう。本名とペンネームとの関連性がない作家はたくさんいるけれど、『初野春』というペンネームはどこから生み出したのだろうか。
そんなことを考えていると、ウエイトレスが注文を取りに来る。彼はホットコーヒーを、都築はアイスコーヒーを頼んだ。都築は冬でも夏でも打ち合わせ中はアイスコーヒーを飲む。その方が、頭が冴える気がするのだ。
注文が届くまで当たり障りのない話をした。
しばらくして、コーヒーが二つテーブルに並ぶ。
ウエイトレスが去ると、
「どうして、今回はあの小説を書籍化しようと思われたのですか?」
と彼が聞いた。
「……そうですね」
数秒。都築は考える。彼が書いた作品よりも評価や人気を獲得している作品はたくさんあったけれど、ランキング一位の作品よりも、都築は彼の作品が気になった。
「なんというか、読んだときに、直感的にこの小説を必要としている人がいると感じました」
こちらを伺うような目線がこちらを見つめた。
都築は続ける。
「作家には二種類の人間がいます。一つは完全にゼロから世界観を構築し物語を作ってしまう人間。もう一つは、自分の経験を物語に落とし込む人間です。どちらもそれぞれの良さがあるのですが……。前者の書いた物語は人を楽しませ、喜ばせることに長けています。後者の書いた物語は人の心のより深い部分に突き刺さり、誰かを感動させることに長けています」
青年は黙って都築の話を聞いていた。
「初野さんは後者ですね。率直に伺いますが、この小説はどこまでがご自分の経験談ですか?」
そこで、言葉を止める。青年が小さく息を吐いた。少し俯き、何かを考える。
しまった。言い過ぎてしまったかもしれないと都築は思った。初対面の人間に、自分の内面を探られて、面白い人間はいないだろう。
しかし、青年は落ち着いた様子で目の前のマグカップに手を掛けた。緩慢な動作でそれを持ち上げ、口元に運ぶ。
一口飲みこんで、またテーブルへと戻すと、
「一つ、謝罪をしなければなりません」
と言った。
「私は初野春ではありません」
*
「え……?」
初野春ではない。青年の言葉を認識して都築は当惑する。作家の打ち合わせに、なぜ別の人間が来るのか。
青年の声が続く。都築の疑問を明確に説明した。
「この小説を書いた人物は、今は別の場所にいます。私は、彼から依頼されて代理人を引き受けました。初野春さんは書籍化には意欲的です。ただ少し事情があって、表立って素性を明かすことが出来ません。彼がこれから執筆活動をするにあたって、都築さんにお願いしたいことがあります」
そう言って、青年――柏木大志は三つの条件を出した。
それは、
一つ目。初野春とのやり取りの全てを、柏木大志を通してしてほしいこと。
二つ目。その理由を時期が来るまで聞かないでいてほしいこと。
三つ目。この事実を社内の人間の限られた人間の間に留めておいてほしいこと。
というものだった。
どれぐらい時間が経ったのだろうか。
都築は口を開いた。
「これは直観ですが、書籍化のオファーは他者からも来ているのではないですか?」
「……ええ。四葉出版さんの他にもう一社いただきました」
「同じことを、その出版社様にも話しているのでしょうか?」
「……前の方には、他からオファーが来ているので考えさせてほしいと伝えました。ここまで話したのは都築さんがはじめてです」
つまり、自分は信用されたということか。この青年ははじめから、自分が『初野春』だとは言わなかった。ただの『司法修習生』と名乗った。
グラスの氷が、からりと音を立てる。水滴が一滴、テーブルに落ちた時、都築の心は決まっていた。
「『陽の当たらない春を探して』はまだまだ稚拙です。文体は不揃いですし、心情描写こそ秀でていますが情景描写は目も当てられません。世の中には、彼よりも書ける作家はたくさんいるでしょう。ですが、あの小説には読者の胸を抉る何かがあります。もちろん、売れるかどうかは分かりません。ただ、先ほども申し上げましたが、あの小説を必要とする人たちが、世の中にはいると私は思っています」
「私は編集者です。あの小説を世に出さなければなりません」
「協力しましょう」
*
喫茶店を出て、柏木大志は駅の方へと歩き出す。
ポケットからスマートフォンを出すと連絡先の中から、ある人のアドレスを選んだ。
新規メールを作成する。
数秒、文面を考える。
『上手くいきました』
『協力いただけるそうです』
いや、第三者に見られた時に、怪しまれない文面がいいはずだ。
そこで、ふと大志は足を止めた。
夕焼けがビルの谷間を赤く染めている。
ふ、と一瞬だけ表情を緩めて。
もう一度、視線をスマートフォンへと落とす。
『大丈夫ですよ』
それだけ書けば、あの人には伝わるだろう。
手早く送信ボタンをタップする。
春の陽気が暖かかった。
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東京丸の内。須藤グループホールディングス本社ビル。
最上階にあるフロアは、普段役員しか出入りすることがない。
そこの一角。ひと際広く作られた一室で、須藤正臣は佇んでいた。
開けっぱなしのブラインドから、窓の外を眺める。そうすると、この街の全てを見下ろすことができた。
都会のネオンの中で控えめに月が輝いている。
今夜は三日月のようだ。欠けた月が視線のすぐ先にあった。
「以上が、調査結果になります」
背中に向かって、桐野が告げる。
それを聞いて正臣は振り返った。
なにかを言おうと、唇を開いた時だった。
ふわり、と一瞬身体が宙に浮いたような、そんな感覚がした。視界が床に近づいて、膝をついたことに気が付く。
「……! 専務!」
有能な部下が、駆け寄ってきて身体を支えた。
「気安く、僕に触れるな」
その手を冷たく、正臣は払う。
「申し訳ありません」
桐野はすぐに離れて、会釈をした。
「……帰ったら、ハーブティーを入れましょう。よく眠れますよ」
数秒の間があった。桐野の言葉を無視して正臣は次の命令を下す。
「……刑事の見張りは外していい」
それから緩やかに立ち上がり、膝についた埃を払う。
淡い月明かりが彼の瞳を照らした。
「僕が直接、話をしよう」
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