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【第8話①】正しく生きることが許されているのは、1

 初夏。  502号室のリビングに朝日が差し込む。  バタートーストを片手で持ち、ソファーに腰をかける。それを噛みちぎりながら、国近肇はテレビをつけた。  爽やかな音楽と共に、朝のニュース番組が始まる。    情報が、目線の先を流れていく。  政治。パワハラ疑惑のあった議員の一人が辞めるらしい。経済。日経平均株価は先月よりも回復。国際。東南アジアの国の一つで紛争が起こり、複数の死傷者が出ている。国内。交通事故の被告に実刑判決。  そこで、手元のトーストがなくなる。テレビをそのままに国近は立ち上がって、バスルームへと向かった。  脱衣室の洗面所の前に立ち、歯ブラシを手に取る。  チューブ状の歯磨き粉をつけると、それを口に含み、しゃこしゃこと動かした。  遠くでキャスターの声が聞こえた。 『続いて、今話題の本を紹介するコーナーです』  ――初野春『陽の当たらない春を探して』  見知った名前に、歯ブラシを動かす手が止まる。  踵を返して、リビングに戻り、テレビの前に立つ。  画面に薄桃色の表紙が映っていた。ナレーションが簡単なあらすじとレビューを紹介する。  ――物語は、薄暗く、狭く、淋しい、ネットカフェの個室から始まります。主人公は、その部屋で暮らす孤独な若者。ある日、一通の手紙を拾ったことがきっかけで、彼の人生が変わりはじめます。  ――誰もが持っている普遍的な幸せを、この物語は「春」の「陽の当たらない場所」にたとえています。陽の当たる場所ではなく、陽の当たらない場所、それが主人公の願ったものであり――。  そこまで聞いて、ふっと、国近は表情を緩めた。踵を再び、バスルームの方へと返す。 *  初野春のデビュー作は、発売当初から話題となり売れていた。  元々投稿サイトで話題となっていただけあって、その実績を使って市場展開が行われたらしい。それが上手く人々の関心を掴んで、初版四千部を売り切り、瞬く間に重版が決まった。 『マーケティングが上手いんですね』  と大志が言っていた。  王道のネット小説は十代から二十代前半の若年層をターゲットとし、ファンタジーを基本とした物語が多い。しかし、初野春の小説は、どちらかと言えばもっと上の年代にも好まれるような小説だ。大志の話によれば、初野春の担当編集・都築侑馬は、打ち合わせの段階で潜在的なファンの存在を視野に入れた商品展開を考えていたという。  作家は作品を読んでもらって、はじめて作家になることができる。ましてや、新人作家ならばなおさら、作品を手に取ってもらうということが重要になるが、その点は都築さんが一枚上手だった。  そして、初野春の小説は、ひとたび作品を手に取った読者を魅了するだけの力があった。  瑞々しい感性が光る文章に、胸に突き刺さって離れない心情描写。中でも一番話題を呼んだのは、作中に埋め込まれた数々の伏線の華麗な回収劇だった。  その中にはいくつか、国近の見覚えのあるトリックが含まれていた。巧妙にオマージュを重ねていたから、気付く人は少数だろうが、あれは父の蔵書の中にあったものだ。美斗はそれを、国近の部屋から学び、自分なりにアレンジしたのだろう。  今はSNSを通じて口コミが広がっていて、売上はさらに伸びるだろうと言われている。 『美斗さんは、とてもいい編集者さんに見つけてもらったと思いますよ』  都築さんとのやり取りは、変わらずに大志が対応してくれていた。  国近のノートパソコンを使って美斗が大志に原稿を送り、大志がそれを都築に送る。修正点があれば、美斗に連絡が返ってくる。という手筈になっている。  美斗はというと、すっかり執筆が板についたらしい。近頃、国近がマンションの部屋に行くと、だいたいソファーの下に腰を掛け、ノートパソコンと向き合っている。  血筋なのだろうか。小説を書くことは随分と楽しいらしい。  ここ最近の美斗は、おおよそ一年と少し前、ネットカフェの前で途方に暮れていた姿とは比べものにならないくらい、生き生きとしている。 *  休日。正午すぎ。  その日も、美斗は明朝早くに目を覚まして、リビングで執筆活動を行っていた。  ソファーに腰を掛け、国近は単行本を開く。彼が集中している時は、なるべく声を掛けないようにしていた。  デビュー作の印税を使って、美斗は執筆に必要なものを揃えた。今、マンションのリビングには、積み重なった本と並んで、一台のプリンターが用意されている。タイピング音に交じって、時折小気味いい機械音が部屋の中に響いていた。  何時間ほど時間が経っただろうか。国近は顔を上げた。 「ハルト」  目線の先で、ノートパソコンに向かい合っている小さな背中に、声をかける。 「そろそろ十三時だよ。キリがいいところで食事にしよう」 「……ああ」  目線は、画面から外れない。生返事が返ってきた。  薄くため息をついて、国近が問いかける。 「何が食べたい?」 「ああ……」  またも生返事だ。もう一度、国近はため息を吐いた。 「美斗」  呼びかける。返答はなかった。  両手を伸ばし、背後から彼の頬に触れた。  ぐいっと、それをそのまま後ろに倒す。 「っ、うぁ!」  バランスを崩した身体が、ソファーにぶつかって止まった。戸惑ったようにこちらを見上げる顔を、頭上から見下ろす。 「何すんだ」  と不満げな声が返ってきた。 「夢中になるのはいい。でも食事はちゃんと取りなさい。俺だって毎日ここに来られるわけじゃないんだ。寝食も忘れて仕事をされると心配する」  数秒。美斗は止まった。国近の言葉を頭の中で丁寧にかみ砕くと、申し訳なさそうに眉を下げた。 「……悪かった。気を付ける」 「ホットサンドでいいか?」 「……ああ。……チーズは多めがいい」 「分かった」 「あと冷蔵庫のキャベツ、腐りそうだ」 「じゃあそれも入れよう」  仕事を始めて、美斗は丸くなったと思う。目線や言葉に棘がなくなった。  日常が平穏に過ぎていく。  ただ、懸念することが全くないわけではなかった。ここに来て国近に張り付いていた見張りがパタリと消えた。  須藤正臣の美斗への執着は、おそらく相当のものだ。美斗のつけていた首輪と同じデザインの指輪を自身もつけているし、状況から察するに美斗はこれまで何度も連れ戻されている。大人しく諦めたとは考えられない。  きっと何か狙いがあるはずだけれど、国近はまだ、彼の狙いが分からずにいた。 *  それは、そんな日々が続いたある日のことだった。 「国近」  声を掛けてきたのは、課を取り仕切る上司だ。おもむろに国近の名を呼ぶと、 「今、取り組んでいる案件は?」  と聞いた。 「……? 先月の交通事故の取りまとめが六件、来月のイベントの、警備配置に関わる事務作業、あと新宿の交番が応援を求めているそうなので、今から向かおうかと」  ふむふむ、と上司が頷く。 「ならそれを、村田と……ああ。山口に引き継げ」 「……え?」  国近は首を傾げた。交番の応援だけならまだしも、期日までだいぶ余裕のある事務作業まで他に回せというのはどういうことだろうか。  気だるげに、上司が告げた。 「捜一の柏木警部が呼んでる」  *  数十後。国近が捜査一課のフロアに向かうと、柏木は所定の位置で国近を迎えた。  およそ一年前まで、自分が働いていた場所だ。懐かしい顔に一通り会釈をした後で、柏木から空の会議室へと案内される。二人きりで話をしたいようだった。 「急に呼び出してすまない」 「いえ。問題ありません」 「お前に応援を頼みたい案件があってな」  応援……?  そこで、国近は一抹の違和感を覚えた。庁内の未決事件に、人手が必要なものなんてなかったはずだ。重大事件が起こったのなら話は別だが、それにしては情報が回ってくるのも捜一の動きも遅すぎる。  それに……。 「なぜ私を? 他にも適任はいるでしょう」  国近は思った疑問を、そのまま言葉にしてみた。  人手が必要な案件だとしても、刑事部長はまだ自分を使いたくはないだろう。 すると、柏木は目線を二、三度左右に泳がせた。柏木自身も、どうしたらいいのか戸惑っているような、そんな様子だった。 「被害者からの指名だ」  そう言って書類の束を机上に載せる。ある事件の捜査資料のようだ。一番上に綴られているのは、被害届のコピーだった。 「……っ!」  それを見て、国近の瞳は大きく見開かれた。書類の上部、被害者の署名欄に見知った名前が記入されていた。 『須藤正臣』  端正で達筆な字だ。幼い頃から習字を習っているのかもしれない。おそらく本人の直筆だろう。柏木が自分を呼び出した理由、刑事部長がそれを黙認している理由が一瞬で理解できた。 「どうする?」  柏木は余計な言葉を削いで最短距離で会話を進めることがある。ましてや、誰かが聞き耳を立てているかもしれないこの場所では、細心の注意を払って言葉を選んでいるかのように見えた。だから分かりづらいけれど、この『どうする?』は、 『何か裏があるかもしれない。やるかやらないか、どうする?』  という意味だろう。  数秒。国近は逡巡した。応援を断ることが出来ないわけではないだろう。適当な理由をつけて代わりの人間を用意すればいいだけの話だ。  しかし、表向きが事件の捜査ならば、ここで断るのはかえって不自然だろうと思った。なにか後ろめたいことがあると認めているようなものだ。ただでさえ、大企業を相手にしている分、こちらは不利になる。  自分に白い目が向けられようが、キャリアが潰れようがどうでもいいけれど、敵は少ない方がいい。少なくとも身内には。  身内に怪しまれれば怪しまれるほど、国近は身動きが取れなくなる。   「……分かりました。概要を」  国近は答えた。 *  ことの発端は、須藤グループホールディングス本社に届いた一通の脅迫メールだった。 『私は、深ヶ山リゾートの開発で故郷を失ったものである。 須藤正臣は会社の利益のために私たちを脅し、追い出し、私たちの町をめちゃくちゃにした。 須藤正臣を役員から引きずりおろせ。 ○月三十日のパーティーまでに彼が役員を辞めなければ パーティーに出席した人間を皆殺しにしてやる』 「まあ、脅迫というよりは……」 「殺害予告、ですね。メールの発信元は分からないんですか?」  柏木は首を横に振った。 「海外のサーバーを経由しているらしい。追ってみたが発信元までは特定できなかった」 「深ヶ山リゾートって、須藤グループが数年ほど前から着手している事業ですよね。今年の夏、正式にオープンする予定の」  深ヶ山リゾートは、限界集落を再開発して出来たリゾート地だ。  北陸の山間にある深ヶ山は、元々小さな田舎町だった。数十年前から急激に過疎化が進み、自治体の財政難に拍車をかけていたらしい。しかし、豊かな大自然に囲まれたその町は、一部の界隈ではキャンプや天体観測のための穴場として知られていた。加えて同じ頃、周辺都市に新幹線が開通し、新幹線の停車駅から乗り換え一回で行き来が可能になった。  それに目をつけたのが、須藤グループだった。須藤グループは集落全土を買い取り、大規模なリゾート施設を建設する計画を打ち出した。  計画当初、周辺住人の移転を巡ってかなりのトラブルに発展したらしい。結局は須藤グループ側が多額の補償金を支払うことで合意し、予定通りに計画が進んだと聞いた。  柏木が短く頷く。 「三十日のパーティーも、深ヶ山リゾートを正式に発表するためのものだ」 「妙ですね」 「ああ」  深ヶ山集落の関係者の仕業なら、いささか動くのが遅すぎる気がする。計画を頓挫させたいのなら、これまでにもチャンスはあったはずだ。いくらなんでもリゾート地の発表と同時なんて悠長にも程がある。それに、当時深ヶ山に住んでいたのは、ほとんどが六十五歳以上の高齢者だと聞いた。先入観は危険だが、限界集落で暮らしていたご老人が、海外サーバーを経由した電子メールを送れるだろうか。 「いたずらの可能性も否めないが、それにしては手が込んでいるし、パーティーには政府の要人や企業の役員なんかが出席する予定だからな。警備課と協力して、捜査と当日までの警備を行うことになった。……どう思う?」 「……警部が思っているようなことはないと思うのですが」  言葉の意図を察して、国近は答えた。須藤正臣による自作自演の可能性。美斗を取り戻すことが目的で、そのために警察を動かし、国近を呼び出そうとしているのではないか。柏木はそれを視野に入れているのだ。誰もいない会議室に自分を案内したのは、それを確認したかったということもあるのだろう。でも、彼はもっと周到だ。少なくとも会社に影響が出るような真似はしないと思う。 となれば、メールを送ったのは誰か。という話になるが……。 「そうか。では念のため聞くが……」 「ありえません」  文面からして、メールを送ったのは正臣氏に恨みがある人物だ。一人だけ該当する人物がいるが、美斗はこんなこと出来ない。それに、彼が正臣氏に抱いている感情は恨みというよりは恐怖に近い。好き好んで関わり合いになるような真似はしないだろう。だいたい、国近の収入で暮らすことすら気にしている様子なのだ。どんな形であれ、巡り巡って自分に迷惑がかかるようなことはしない。それは、パートナーとしての贔屓目を抜きにしても明白なことだった。  柏木も、それは分かっていたのだろう。だろうな、と頷くと、顎に手を当てて熟考した。 確認してしまうのは、警察官としての性だ。  机上のコピー用紙を、国近は掴んだ。順番に繰って内容を確認していく。一枚目と二枚目、被害届のコピーには、今回の経緯が簡潔に示されていた。三枚目は、送られてきたメールを印刷したものだ。文面は柏木が説明した以上のことは書いてなかった。四枚目には、関係各所の連絡先。社内の直通回線と、正臣氏の社用携帯の番号、それからもう一人……。 「須藤、佳史……」  ふと、呟く。 「どうかしたか?」 「いえ……。正臣氏とは不仲だと聞いたことがあるので」 「ああ……例の週刊誌を読んだんだな」  美斗を匿うようになってから、須藤グループの動向は注視していた。  手に入れられる情報には限りがあるから、脅迫メールの件は知らなかったけれど、公になっていることならほとんど把握している。  近頃話題になっていたのは、深ヶ山リゾートのオープンともう一つ。  現代表取締役・須藤忠臣氏の容態の悪化と、それに伴うお家騒動だった。  須藤グループホールディングスで代表取締役を務める忠臣氏は、数年前にくも膜下出血で倒れて以降、意識が戻らない状態が続いている。現在、須藤グループは、会長不在のまま役員会で会社を運営しており、場合によっては正臣氏が取締役代理を務めているそうだ。  しかし、今年に入ってから忠臣氏の容態が急激に悪化した。須藤グループはいよいよ次の跡目を正式に決めなければならなくなった。  順当にいけば、忠臣氏の嫡男である正臣氏が跡を継ぐことになる。実際、今は社内の決定権のほとんどを正臣氏が持っているが、正臣氏はまだ二十代であり、正式に代表を務めることについては反対意見も挙がっているらしい。  次期代表を誰にするかで、役員会が揉めているそうだ。    須藤佳史氏は、忠臣氏の弟で、正臣氏の叔父にあたる人物だ。長年忠臣氏のサポートをしていたそうで、現在は正臣氏と同じ役職についている。彼は正臣氏の取締役就任に反対している人間の一人だった。噂によれば佳史氏は、忠臣氏の後釜を狙っているらしい。  大企業の跡目争いは世間の注目を集めるのだろう。先日とある週刊誌で特集記事が組まれていた。 「だが、あれは関係ないかもな。関係者の話によれば、佳史氏は甥である正臣氏の身を純粋に案じているだけらしい。週刊誌では随分と誇張した書き方をされていて、本人も心を痛めていたそうだ」 「そうですか」  柏木の説明に、短く国近は頷く。  妙なことになった、と思う。  須藤正臣を脅迫したのは誰なのか。  彼は自分に、いったい何をさせるつもりなのか。  国近の思考は、柏木の一言によって打ち切られた。 「ひとまず捜査会議だ。十五分後。着替えたら合流しなさい」 *  〇月三十日。午後四時  須藤グループホールディングスのパーティーは、グループが経営するホテルの一つで行われた。そこは四十階建てのホテルであり、メイン階の一部が宴会場となっている。  今回会場となるのは、一階の、中庭に面した一室だ。  その部屋は、壁に大きなウィンドウウォールがあしらわれ、パノラマ的に中庭の日本庭園が見渡せる造りになっていた。  全体的に青と白を基調とした、華やかさの中に気品を感じる部屋だった。床は群青色の中に黒をアクセントにしたカーペットが敷かれている。曇り一つない真っ白な天井からは、ロココ調のシャンデリアがつり下がり、黄金色の光が会場を照らしていた。  三百坪ほどの広さのその部屋は、このホテルでは二番目に大きな会場らしい。  今日はおおよそ千人前後の関係者が出席する手筈になっており、徐々に会場入りが進んでいる最中だった。  この後、十六時半から深ヶ山リゾートの発表会が行われ、十八時からは関係者による立食パーティーが開かれる。  結局、メールの手掛かりは今日まで掴めなかった。あの一通以降、社内に脅迫メールが届くことはく、周辺を探ってみても怪しげな人影はなかった。  捜査本部は一旦犯人捜しを切り上げ、当日の警備に注力する方向で舵をきった。  ――本日、会場には数十人の警察官が配備されている。  中庭側の壁に背を向けて、国近は会場の様子を観察していた。  目線の先を、煌びやかな衣装をまとった人々が通り過ぎていく。  不審な点はない。エントランスで厳重な持ち物検査を実施しているから、凶器などを持ち込むことは出来ないだろう。  ふと腕時計に視線を落とすと、長針が六を指すところだった。  反対側の壁に、プロジェクターが下りてきた。照明が彩度を落とすと、奥の方から司会者が顔を出す。 「ご来場の皆様。本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。これより、須藤グループホールディングスの新商品・深ヶ山リゾートの発表会を執り行います」  プロジェクターが、山間の豊かな風景を写し出す。 「深ヶ山リゾートは、約五年前から弊社が着手している事業になります」  移り変わるスライドに合わせて、司会者が説明を始めた。 * 「……と、このように宿泊、グランピング、スキーと、様々な需要に合わせてお使いいただける施設になっております」  二十分ほど経っただろうか。説明が終わり、照明が元の明るさに戻る。  続いて前に出たのは、妙齢の男性だった。週刊誌と捜査資料で見かけた顔だ。 「専務取締役を務めております。須藤佳史と申します」  忠臣氏や正臣氏とよく似た美形だが、二人よりも柔らかな雰囲気を持つ人だった。記事に書かれていた印象とはだいぶ異なる。  よく響く落ち着いた声で挨拶をし、そのままスピーチを始めた。時折ユーモアを交えた話をしては、会場を笑わせる。  そこで、ふと、あることに気が付いて、国近は胸元に手を当てた。襟の部分に取り付けたインカムを掴み、マイクに向けて問いかける。 「正臣氏は?」  発表会が始まったのに、会場のどこを見渡しても、正臣氏の姿が見当たらない。目立つ外見をしているから、見逃すことはないと思うが……。  イヤホンの向こうから、柏木の声が聞こえてきた。 『念のため今回は露出を最小限にしているとのことだ。裏でセッティングを担当しているらしい』 『……直々に、ですか?』  と誰かが重ねて問いかける。 『彼は現場至上主義で評判だそうだ』 「岩崎班が場内にいるようですが」  現場にいる警察官は、五、六人程度の班に分かれて行動している。国近は柏木が指揮を執る班に属しており、他にも十数班が現場の警戒をしていた。  警備課の岩崎警部補が指揮を執る班は、本日正臣氏の護衛を担当する予定だった。彼らが場内にいるのであれば、正臣氏は今、単独で行動していることになるけれど。 『業務に支障をきたすからと、護衛は断られてしまったそうだ。それよりも来賓客に危険が及ばないようにと』  進行が、司会者に戻る。 「後ほどのパーティーでは、皆さま一人一人とお話させていただき、皆さまの疑問などにお答えしたいと思っております。開始時間になりましたら、佳史専務と同じく専務取締役の須藤正臣よりご挨拶いたします。それまで皆様、ごゆっくりとお寛ぎくださいませ」  今回は関係者向けの発表会のようで、マスコミは呼んでないらしい。後日報道機関に向けて改めて記者会見が開かれる予定だ。  ウエイタ―が入ってきて、ドリンクを配り始めた。会場に和やかな空気が流れ出す。再びイヤホンから声が飛んだ。 『次、国近。場外』 「了解」

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