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【最終話③】首輪が嫌いな君にRewardを。3

「では、手続きの方はこちらで進めておきます」  ふた月後。502号室にやって来た大志は、テーブルに散らばった書類をまとめながらそう言った。 「色々とありがとう。助かったよ」  国近が異動してからずっと、彼は自分たちの力になってくれていた。須藤家の身辺調査や都築さんとのやり取り。民事訴訟では美斗に代わってややこしい手続きのほとんどを担ってくれた。  彼の助けがなければ、今回の結末には辿り着けなかっただろう。 「いえ、これが俺の仕事ですから」  微かに笑みを浮かべて、大志は書類を茶封筒へと入れる。開口を糸で厳重に閉じると、ビジネスバックへとしまった。 「そうだ。美斗さん」  言いながら、大志は別の封筒をバックから取り出す。今度は少々分厚い。 「……?」  国近の傍らにいた美斗は、首を傾げながら封筒を受け取った。開けて、中身を半分ほど引き出す。  数冊の参考書が目に入った。 「進学を考えていると聞きました」  ここ数カ月間、美斗は小説を書いていなかった。『書けなくなった』と、そう言った方が正しいかもしれない。色々なことが目まぐるしく起こりすぎたのだろう。受け止めきれないほどの批判も受けた。すぐに元通りというわけにはいかなかった。 『大学に行きたいんだ』  美斗にそう言われたのは、彼の里帰りが済んだすぐあとだった。 『高認試験を受けて、本格的に文学の勉強がしたい』  いいと思うと国近は答えた。それはきっと、美斗がこれから生きていくための力になってくれるだろうと思った。なによりも、美斗はこれから先も、小説を書いて生きていきたいだろう。文学の知識はきっと役に立つ。  参考書は大志が受験生の頃に使っていたものらしい。少し古いけれど、よく出来た教材だと大志は言った。上から順番に美斗が参考書の表紙を確認する。参考書の一番下には、一冊のパンフレットが同封されていた。 「……これは?」  と、美斗が問いかける。 「病気や事故で、親を亡くした学生に奨学金の給付や貸与を行っている団体です。美斗さんは二十二歳ですので、二十五歳になるまでに進学をすればこちらの奨学金を利用することが可能です。小説の印税や国の制度だけでは、心もとないかと思いまして」  四葉出版は、イメージダウンや初野春の将来を考えて、騒動後の重版を行わなかった。デビュー作の印税は、一、二年ほど普通に生活をするには十分な額だけれど、大学に通うとなると少し頼りない。受験のために予備校に通うことを視野に入れれば、さらにお金がかかるだろう。  今後、正臣氏と示談金や慰謝料の交渉も進むだろうけれど、それが美斗の手元に入るのはずっと先だ。そもそも美斗はお金で解決するよりも、正臣氏に罪を償って欲しいようで、そういった金銭の類を拒否しようか決めかねているようだった。  生活のことは気にしなくていいと国近は言ったのだけれど、美斗はどうにも気に病んでいる様子で。どう説得しようか悩んでいたから助かった。 「俺も、もらっていました」  と大志が言った。  パンフレットから顔を上げて、美斗が大志の顔を見つめる。少ししてから再びパンフレットに目線を落とすと、 「……そうか」  と目を伏せた。 「ありがとう」  失ってしまったものも、奪われてしまったものも、取り戻せやしないけれど。  どうかそれ以上のものを、彼が手にすることができたらいいと思う。 *  それから。    時が過ぎて。  季節はまた、春を迎えようとしていた。  須藤美斗は、人混みの中を国近と並んで歩いていた。  麗らかな春の陽気が、美斗の肌を撫でる。道なりには桜の木が植えられていて、枝の先にところどころに小さなつぼみが出来ていた。  この近辺は有名な観光スポットだ。二人が今歩いている場所は、土産や食べ歩きを狙ったお菓子や軽食を売っているお店が連なった通りだった。 「美斗」  隣で、国近が呼びかける。一軒の店を指さした。桜色ののぼりと、鶯色の立て看板が目に入る。 「抹茶のクレープだって。食べるか?」 「……食べる」  美斗が頷くと、国近は手早く注文と会計を済ませる。店先で店主が、円形のプレートに抹茶色の生地を垂らした。  しばらく軒先で待っていると、包み紙にくるまれたクレープが差し出された。生地は緑色で、てっぺんには追加の生クリームが平らに乗っている。その上に青々しい芝生みたいな抹茶の粉が振りかけてあった。中身も詰まっているのか、ずっしりと重たい。  本日、美斗と国近は都心からほど近い場所にある温泉街に小旅行に来ていた。これから温泉宿に一泊し、束の間の余暇を過ごす予定である。  以前、温泉に行きたいと言ったのを、国近は覚えていたのだ。墓参りを終えたあと、都内に戻る車の中で今回の旅行に誘われた。  仕事柄忙しい国近によく二日間も休みが取れたものだと思うが、なにやら近く警視庁に新課が発足するらしく、新年度からはその準備のため、ほとんど休みが取れなくなるそうだ。彼は今回の件の功労者ということもあり、余裕があるうちに優先的に有給を取らせてもらえることになったらしい。  それでも重大事件が起きれば休暇は流れるだろうから、本当にぎりぎりまで来られるか分からなかったのだけれど、どうやら天は彼に真っ当な休みをくれる気になったらしい。  パクリと、手元のクレープを食む。サクサクとした生地が崩れて、中から抹茶アイスと生クリームが飛び出してきた。少し濃いめの抹茶の味と、爽やかなミルクの味が口の中で絶妙に混ざり合う。それらは生地と一緒にとろけて、喉の奥へと消えていった。 「……美味い」  と呟く。ふふっと国近が笑った。途端にクレープから目線を離さなくなる美斗の手を引いた。 「今日の旅館、カニが出るらしいぞ」 「……カニ?」  と美斗が顔を上げる。カニなんて幼少期に食べた以来か。どんな味だったか。 「……美味そうだな」 「ああ。きっと美味い」   *  国近が予約をしたという宿は、その商店街を抜けた先にある三階建ての日本旅館だった。敷地面積は広く、独特の存在感を放っている。どうやら大正時代から続く老舗のようで、館内は厳かな雰囲気が漂っていた。  白磁色の着物を着た仲居が、エントランスで迎えてくれる。 「こちらです」と案内された部屋は、十二畳の畳と縁側のついた、純和風の部屋だった。畳の上には、座卓と座椅子が並べられていて、縁側の向こうには一面の海がのぞいていた。  室内はとても広く、開放感に溢れている。 「お、おい」  美斗は思わず隣の国近を呼んだ。 「良いのかよ。こんないい部屋、高かったんじゃないのか?」  敷地面積も広いし、景色もいい。相場なんて分からないけれど、この部屋がそれなりに値段の張る部屋だということは分かる。 「良いんだよ。今日は特別」 「でも」  旅行の代金を国近は美斗に払わせてくれなかった。いつも貰ってばかりなのに……。 「良いんだ。今日は――……するから」 「……は?」  美斗は首を傾げる。今、何やらとんでもない言葉が聞こえた気がした。  国近は美斗の疑問符には答えなかった。ふ、表情を緩める。 「奥に露天風呂があるけれど、入るか?」 「露天風呂……?」  そんなものが個室にあるのか。贅沢な単語に美斗の思考が逸れる。 「ああ」  あれ、なんか……。  首を傾げて、美斗は胸元に手を置いた。なんだか心臓が、羽根が生えたように軽くなったような心地がする。なんだろう、この感情は……。 *  畳の奥に襖があって、それを開くと脱衣所になっていた。その向こうがバルコニーになっていて、御影石で作られた浴槽がある。浴槽には、乳白色のお湯が張ってあった。  美斗はおそるおそる、浴槽に足を踏み入れた。熱すぎることもなくぬるすぎることもない、ちょうどいい温度のお湯が、美斗の身体を包み込む。  顔を上げると、先ほど縁側から見えた大海原が、一層近く大きく見渡せた。  山に囲まれて育ったからか、美斗は海が好きだった。雄大に寄せては返す波を見ていると心が落ち着く。耳を澄ませると、浴槽のお湯が跳ねる音に交じって、さざ波の音が微かに聞こえた。  心も身体も、その浴槽の中に溶けていくかのように温かかった。  しっかり小一時間、その露天風呂を堪能した時には、辺りはすっかり夕焼けに染まりはじめていた。  脱衣所に戻って、身体を拭う。浴衣帯の結び方が分からなくて、襖の向こうの国近を呼んだ。 意図を察した国近が、手早く浴衣の長さを調整して帯を結んでくれた。 「これで大丈夫だ」  夕陽が、彼の端正な顔を照らし出す。 「ありがとう」 「どうだった?」 「あ……良かった」 「……それだけか?」 「ぇ、ぁ……広かった、し……景色も、良かった」  小説だったらもっと言葉が出てくるんだけれどな。もっとも最近はめっきり書けていないのだけれど。  いざ感想を問われると、上手い返しは出てこなかった。気恥ずかしくなって、美斗は目線を反らす。 「そうか」  国近は穏やかに口角を上げた。美斗の濡れた前髪を梳くって、耳元にかける。国近の指が触れると、美斗の心はまたじんと温かくなった。 「美斗」  呼ばれて、顔を上げる。 「楽しいか?」 「あ……」  言われて、美斗は気が付いた。  ああ、そうか。先ほどの感情の正体はこれだ。自分は今楽しいのか。  当たり前のように外に出て、普通の恋人のように遠出をして遊んでいる。何からも、誰からも脅かされることなく、自分の生を生きている。  それはこんなにも……。  ほっと息を吐いて、ふにゃっと下手くそに美斗は笑った。 「ああ、すごく」 「それは良かった」 *  夕食は、国近が話していた通り、カニが出た。座卓を埋め尽くすほどの豪勢な料理を、美斗ははじめて見た気がする。カニの殻が上手く剥けなくて戸惑っていたら、国近が可笑しそうに笑いながら剥いてくれた。  客室の露天風呂とは別に大浴場があって、夕食のあとは二人で向かった。大浴場にも露天風呂があって、その浴槽は檜で出来ていた。清々しい森林の香りが露天風呂いっぱいに広がっていた。  宵闇が、客室を埋めていく。薄暗くなった室内はすっかり濃紺色へと装いを変えていた。  縁側から微かな月明かりが差し、それが二つ分仲良く並んだ敷布団を照らし出す。  ふ、と穏やかに国近が笑った。敷布団の片方に腰を下ろすと。 「『おいで』」  と、美斗のことを呼ぶ。  言われた通り、美斗は国近の方へと近づく。腰の方へと腕が回されて、彼の方へと引き寄せられる。 「『いい子』」  と妖艶に笑うと、その指先は帯に伸びて。  結び目がするりと解かれる。美斗の白い肌が露になった。  国近の指先が、肌に伸びて。胸元に触れようとした。  その時だ。 「ちょ、ちょっと、待って」  美斗は国近の身体を押し返した。 「……どうした?」 「な、なんか」  先ほどコマンドを聞いて、いい子と褒められた。そのあとから、なんだか妙な感覚に襲われた。 「なんか、変だ」  いつも以上に力が入らないし、頭が働かない。思考能力がゆっくり何かに吸い込まれて、奪われていくような気配がするのだ。 「……?」  きょと、と国近が美斗の顔を見つめる。数秒見つめて、合点がいったという顔をすると、 「ああ、スペースに入りそうなんだな」  と言った。 「は?」  益々首を傾げる美斗に、国近は優しく説明をした。スペース、つまりSub Spaseというのは、Subが完全にDomのコントロール下に入った時に起こる現象のことらしい。この状況になったSubは深いトランス状態に入り、多幸感に包まれる。 「そう言えば、入ったことなかったな。無意識的に身体がセーブをかけていたのかもしれない」  コントロール下? 多幸感? 何を言っているんだろう。  言葉や現象を理解はしても受け入れることはできず、美斗の頭は混乱した。  国近が美斗の頬に手を伸ばす。 「い、いやだ……触んなっ」  パシッと、美斗はその手を跳ねのけた。そのまま離れようとするけれど、寸でのところでその腰をまた、国近に捕まえられた。 「『こっちにおいで』」 「ひ、今、それやめろ」  こんな状態でコマンドなんて使われたら、きっとすぐにおかしくなってしまう。 「大丈夫だから」  多幸感は徐々に美斗の身体を浸食していた。手を取って彼に身を任せたら、自分はきっと、もっと幸せになれるだろう。それは本能的には分かっている。けれど、飽和量を超えた幸福なんか経験したことがないのだ。このまま死んでしまうのではないかと不安になる。  ぶんぶんと首を振ると、国近は困ったように眉を下げた。 「美斗」  と優しく美斗に呼びかける。 「こっち、『見て』」  すでに半べそ状態だった美斗は、そう言われておずおずと顔を上げた。  視界に入った彼の顔つきを見て、はっと美斗は瞳を大きく見開く。  真っ直ぐな瞳が美斗のことを射抜いていた。 「あ……」  誰よりも温かくて、真っ直ぐな瞳だ。自分を支配してくれる瞳。  国近は優しく微笑むと、また「いいこ」と美斗を撫でる。 「大丈夫だから」  その眼差しは美斗を捕まえて、ほんの一瞬も離さない。  ああ。この目だ。  きっとどれだけ行っても、どれだけ道を踏み外してしまっても、肇はきっと、自分を正常な場所に戻してくれる。  身体の力が徐々に抜けた。降参を示した美斗の腕が敷布団の上へと落ちる。 「美斗」 「“Kneel”」  その言葉が、きっと合図だった。

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