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#9 Baby,Don’t cry
宵闇と、平たい夕焼けが手を繋いだ空のなか。
2年F組の教卓で数IIのテストを採点する、同期の横山 先生の傍らで、寺嶋先生の咥えた煙草の煙が、開け話した窓の外へ緩く立ち昇ってゆきます。
「あ、」
お喋りな寺嶋先生が、ようやく静かになったと採点に集中しかけた横山先生も、赤ペンを構えたまま、不審げな顔をしながらもその見上げた方向へ目線を上げました。
「月や」
瑠璃紺の空の端、白い月が、その奥 を恥じらいながらも指の隙間から覗かせているように、からだを透かせながら、円い体を浮き上がらせ佇んでいました。
「——……駄目だ」
諦めたように沈んだ呟きが、橘君の胸に零れ落ちました。
白いシーツに素肌を埋めた橘君は、淡く微笑みながら、その伏せた顔を見守りました。
「女の時より、どうにかなりそうな、気もしたんだけど……」
二人は互いの身体を唾液で濡らし、橘君のあたたかい無花果の唇や、とろけて意識を手放したくなるような橘君のなかに、時緒君を迎え入れましたが、
あまたの男の子たちを絶頂に導いた、橘君の肢体を以ってしても、
時緒君のそれは、熱く迸る熱を放ってはくれませんでした。
「やっぱり駄目だ、ごめん……」
「…………いいよ」
「やっぱり俺は、 不能だよ」
「違うね」
はっきりと形にして、橘君は口にしました。
「時緒君は、不能なんかじゃないよ。男の体に、どうにかなる方が、おかしいんだから」
「……」
「時緒君は、 極めて正常な反応を、示しているよ」
保健室の照明は落とされたままで、辺りを浮かび上がらせるのは、窓から漏れる灯りのみです。
眼鏡は傍らに置いたままで、時緒君の世界はより曖昧なままなのに、そう断言した橘君の微笑みは、瞳や、唇のかたちまで、はっきりとその輪郭を時緒君の眼に映しました。
その残像が、脳裏にも染み込んで離れないまま、時緒君は横たわった橘君を見降ろし、問いかけていました。
「…………お前。……好きな奴、いるのか」
橘君は静かに微笑み、答えを返しました。
「そいつといると、満たされるのか」
「……」
「しあわせ、なの…………?」
灰色に覆われた世界で、その時橘君が見せた表情は、橘君が内に込めているものを、色も音も、匂いまで掠めてくるかと想えるほどに、まっさらな気持ちそのままで、眩しく感じるくらいの、綻びに満ちていたのでした。
「うん……」
「……」
ぱた、ぱたたっ。
時緒君の眼から、大粒の雫が盛り上がり、溢れて橘君のはだかの胸に降り注ぎました。
「……ママ…………っ」
小さな時緒君に、ママはいません。
いないママを呼ばなければいけない程、身内に何か、感じたのでしょうか。
「…………どうしたの」
橘君は起き上がり、小さく震えるその肩に触れました。
「やすあき君が、怒ってる……!」
怯えている訳じゃなく、どこか、哀しげでした。
「"ゆるさない。ゆるさない"って、怒ってるよ…………っ」
「そうかあ……。でも俺は、時緒君が沢山いるのも、きみの存在も、不能なんかじゃないのも、全部全部許せるけどね…………」
泰晃君に、聞こえたらいいなあと思ったけど、赤ちゃんの時緒君は泣き止みません。
「君は……。君も、やすあき君なのかな……」
「……やあ君」
「やあ君かあ」
「……アキラは、にこにこしてるけどすぐ僕のこと馬鹿にする……。タイキは、ぶつから嫌いっ……。オト君は、ゆっくりだけど、僕と遊んでくれる……」
「なるほど……」
「……やあ君は、やすあき君のママが、やすあき君が小さい時に、そう呼んでくれていたの……」
「そうかあ。そうなんだね……。……つらいねえ」
橘君に慰められ、頭を撫でられても、小さい時緒君のくすん、くすすんはおさまらず、不安定に時折赤ちゃんの顔も覗かせ、そしてどこか物欲しそうに、親指を咥えているのです。
「大丈夫だよ、泣かないで。 ——俺がママになってあげるから」
んくんくと、橘君の乳首を唇に含む時緒君の、髪を橘君は撫で続けました。
宵闇は、朧げな夕焼けを内奥し、その紺と黒の中に、世界を全て包み込もうとする刹那でした。
白い月が、その傍らにむきだしの姿で、婉然とした艶 を魅せるようにそっと瞳を伏せ、寄り添っていました。
闇と月は、相反しているようで、ひとつなのです。
隠すじゃない、許すだ。そうやって夜が始まる。
それでいいだろう…………?
泣き疲れて眠ろうとする、時緒君の眼尻の白珠 を掬いながら、橘君はそう、見上げる闇と、自分の奥 へ、何かを探すように見据えながら、どこか乞うように、問うのです。
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