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#8 保健室でお勉強

 橙の上に紺色が腕を回してきた空が、四角い窓から重たげに見えます。  その空が横に垂れ下がる廊下を、橘君が時緒君と手を繋いで連れて来たのは保健室。  健康を、保つと書いて保健室でした。  ドアを開けると、男の子のはだかが沢山載っている雑誌を開きながら、煙草を咥えている寺嶋(てらしま)保健医(せんせい)の、くるくるした茶色い頭が振り返りました。 「先生」  寺嶋先生は、にっこり笑っている橘君の背後にいる、時緒君の存在に眉を顰めました。 「ベッド、貸して下さい」  訝しげに煙を吐きながら、寺嶋先生は煙草を灰皿の窪みに置きました。 「……学校一の尻軽と、学校一のIQて。どーゆう組み合わせぇ」  言葉のイントネーションが標準とは違う、独特の位置に上がり下がりがあります。 「なにに使うんだ……」 「ナニに使うんだよ」 「……」 「勉強、したいんです」  橘君の言葉を落とし込むように沈黙しながら、寺嶋先生は時緒君の表情を眺めていました。  そして目の前にやって来た橘君へ、右の掌を差し出します。 「瀬生(せのう)ちゃんのRINE IDと交換」 「はい、どうぞお」  橘君は、噛んでいたガムを、ちょん、と先生の掌に置きました。  芸術は音楽を選択する時緒君は、人気だけど陰のある美術の先生の、少し変わった下の名前を、ややあってから思い出しました。 「おま、ほんっと可愛くねえわ」  苦虫を噛んだような寺嶋先生の表情は、ガムを口に入れた途端、「うわ、味ねーがね!」さらにその色を強めました。  とても美味しくなさそうにガムを口の中で転がす寺嶋先生は、向かいの壁時計を見上げ、 「あ、もう定時過ぎとるがん。職員会議もねーし、帰るぞ俺は。鍵、終わったら閉めて、俺の靴箱入れとき」 「了解でーす」 「あっ、それか瀬生ちゃん、まだ部活で残っとるかなあ? 残っとるんなら、俺もまだ残っててやってもい」 「早く帰れよ」  愛くるしい笑顔なのに、氷のような口角と、何段階も墜とした声でぴしゃりと()めました。  寺嶋先生は顔をしかめ、 「ほーんま可愛くね。こんな性悪の、どいつもこいつもどこがええんやら」ごそごそ呟きながら、煙草を灰皿に押しつけ、 それでも大儀そうに、椅子から腰を上げてくれたのです。  窓際のベッドは、青と白の野球団やイベント帰りと見られるグッズが転がり、お昼寝をした後のような乱れも残って、完全に寺嶋先生の私物空間と化していました。  隣のベッドを覆う、カーテンを寺嶋先生は開きます。  何という清潔感。向かいのベッドとは打って変わり、すぐさま横たわって頬擦りしたくなるような、肌触りの佳さを予期させるシルクのシーツが、まさに純潔を表すかのようなまっさらな白で広がっています。  傍らには清浄機が空気を清廉とさせ、心を解きほぐすような芳香とした佳い薫りが寝台を包みます。  生きとし生けるもの。思わぬ怪我や急病に見舞われた人、学校には来たけど教室には行けない人、そして若い道程の途中で懊悩して蹲る人にとっては、 『健康』になるためへのいっときの癒し、羽休めの休息、"迷い"へ向き合うための場処として、これほどの相応しい空間はありませんでした。  マシュマロのような枕をぽんぽんと叩き、寺嶋先生はその柔らかな感触を確かめました。 「盛り上がって派手に汚すなやあ。落ちんと面倒だで。 綺麗に使い。汚したら、ちゃんと拭いとけよお」 「はーい」  夕方の欠伸を噛み殺しながら、寺嶋先生は橘君に鍵を預け、気怠げに二人の横を通り過ぎました。  保健室のドアは閉まり、二人だけの空間にしん……と静寂がそっと降り立ちました。  ベッドの上でベルトとスラックスを滑らし、橘君は爪先でそれを床に落としました。  白い肌を帯びる右腿に、紫の花が妖しく咲いています。 「本来、セックスってこういうところでするもんだよ。あんな堅い、ロッカーの上でなんか、駄目」  だって、あそこは勉強するところでしょう?一応。  悪戯な微笑みで振り返りながら、橘君は時緒君の手を引き、ベッドに座らせました。 「ふかふかの綺麗な温かいベッドで、大好きな人と、幸せな気持ちに包まれながらするものだよ」  時緒君の眼鏡は、橘君の指で優しく外されました。 「俺を、大好きな子だと思って」 「俺も時緒君を、大好きな人だと思うから…………」  視力が落ちた時緒君の眼に、橘君の輪郭は朧げです。だけど天使のように微笑む柔らかなその表情は、何よりも鮮明でした。  その微笑みがやがて近づき、無花果の唇だけが見えて、時緒君のそれに、溶け込むように触れました。

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