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#7 教えてくれ

「だって、痛がってのたうち回られても、かえって面倒でしょう……?」 「……」 「ま、俺があまり苦しみたくない、ていうのもあるけど……」  呟いた唇が、ふふんと自嘲めいて歪みました。 「……それか、ベルトとかで、躊躇いなく一気に絞めて貰うのが、早いかと思うんだよね」  橘君は、腰に纏うベルトの金具を、指でつるりとなぞりました。 「ぎゅっ、て絞めるのって、みたいで、気持ち()いんだよ。 だけどそんな間も与えないで、早くあの世に送ってやんないと、駄目だよ。絞める方、きっと疲れる。……どう?」 「……」 「面倒だよね。……はあ。中々いないんだよなあ、それやってくれる人……。 ……探してるんだけど」 「……お前の悪趣味な嗜好と、自殺幇助に手を貸すつもりはない」 「全くだよね、ごめん」  コンパスの針は、橘君の睫毛の先に針に触れ続けていました。なのに、橘君の瞳は震えようとしません。  それどころか、どこか別のところを見ているような、夢の中を漂っているようなふわふわとした調べで、随分うっとり物騒なことを口にするので、  それに小さな寒気をひそかに感じながらも、時緒君は、別の角度から橘君を追い詰めることにしました。 「…………お前、男相手に、ウリやってるんだってな」  橘君の睫毛が僅かに上向き、時緒君は嘲りをこめました。 「男相手に(ケツ)の穴突かれて、一体何が、愉しいっていうんだよ」  嘲嗤う時緒君の前で、橘君のイグアナの瞳が瞬きます。 「いかれてるから」 「……」 「君が思ってる通り、いかれてるから。 それに較べたら、自分が何人いるかとか、そんな大した問題でもないよ」  どんなにコンパスを近付けても、厭な言葉で脅してみても、橘君の中は、茫漠たる何かが果てしなく拡がっているようで、その澱みは崩れる気配もなく、時緒君が期待するような狼狽えと怯えを、見せてはくれませんでした。  時緒君はコンパスを降ろし、いつしかこんな事を訊ねていました。 「……お前、セックス好きか」 「……まあ。それなりに」 「親がセックスしてるの、見たことあるか」 「……親はない。他人のは、あるけど」 「母親が、他の男に抱かれてるの、見たことあるか」 「……」  時緒君の眼に、鬼火のような揺らぎが灯りました。 「あれは、人間の姿じゃない」 「…………中学の時、新しい家庭教師が来たんだ。二十歳の、K大の若い(やつ)」 「その日は、放課後の集中講義が中止になって、早く帰ったんだ。家には面倒で連絡を入れなかった。 そしたら、学習前の時間にもうそいつが家にいて……。ダイニングで、母親喰ってた」 「いつも磨きあげてる、自慢のテーブルだ。息子くらい年の離れた男相手に、蛙がひっくり返ったような格好して、喚きやがって……。だから俺、そこでもう絶対に食事は摂らないし、その時から、蛙も大嫌いだ」 「…………凄く好きな()が、いたんだ……」 「勉強が好きな娘で、一緒に勉強するのが楽しかった。同じ部屋で、同じ本を読んで、彼女といる空間が好きだった。彼女も同じ風に想ってくれたみたいで……。 ごく自然に、 そういうことに、なったんだよ……」 「でも、駄目だった」 「駄目だった。あの娘と母親は違う。絶対に違うのに、駄目だった。どうしても、どこかで母親の姿が現れるんだ。 彼女が欲しい。彼女の気持ちに応えたい。彼女とあいつを重ね合わせたくなんか、決してないのに……。 怖かった。あの娘は全然汚れてなんかいない。汚れてなんかいないのに、そう思えないかも知れない自分が、恐ろしかった。 彼女は、全く怒ってなんかいなかった。 だけど、もう訳が解らなくて、苦しくて……。 俺から、もう一緒にはいたくない、もう会わない、て伝えた」 「……」 「あの時から、俺はもう、 ずっと不能だよ…………」  橘君の瞳は、もうイグアナの瞳ではありませんでした。  イグアナがどこへ消えた瞳で、時緒君を見つめる橘君に、時緒君は呼びかけます。 「……お前、セックス好きなんだろ」 「……」 「教えてくれ」 「……」 「教えてくれよ。セックスの、愉しさってものを」  橘君の唇が、(なか)を見せた無花果のように、初めて綻びました。 「いいよ…………」    時緒君は、橘君のシャツの釦に、コンパスの針を掛けました。 「待って」  針ごと包むように、優しくその手をとどめました。 「こんなところで、してはいけないよ」  掌で包みながら、まるで子供に諭すように、勉強が誰よりも得意な時緒君へ、教えるように、眼を見て言うのです。 「来て」  橘君は、冷え切った時緒君の掌を、そっと握りました。

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