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第一話 お互いにおすそわけする 好きなこと 好きではないけどたくさんあるもの
今までのすべてを捨てて(売れるものはメルカリで売って)、リュックサックに入れたのは日本野鳥の会の長靴だけ。
夏来求は、伊豆高原にやってきた!
小さな駅で降りて、教えてもらった道をてくてくと十五分ほど歩く。てんてんとある建物は企業の保養宿泊施設のようだが、どこもひっそりと扉を閉ざしていて、今日が平日だから閉まっているのか、もう何年も営業していないのかはわからない。
三月の温かい日で、まだ桜は咲いていないが、つぼみが膨らんでいる木をいくつか見つけた。
道はずっと上り坂で、くねくねとしていたが一本道だったので迷わずにたどり着いた。
「……お城じゃん!」
求は目を丸くした。まるで、イギリスの貴族が地方に所有している別荘のような、レンガ造りの一軒家。二階部分には真っ白な大理石の手すりでできたバルコニーがある。内覧もせずに引っ越しを決めて、庭のことは色々と聞いていたが、そういえばどんな家なのかは聞いていなかった。期待する庭は建物の裏側にあるのか、表からは様子が見えない。
この家で、四十歳のおとこが独り暮らしをしているのか。
求はおそるおそる、チャイムを鳴らした。
もしかしたら召使いがいるかもしれない、と思ったが、出てきたのは私服の男性だった。
「あの……はじめまして! 夏来です!」
求はぺこりと頭を下げた。
男は玄関を出て、門を開けた。
「こちらこそ、はじめまして。蘇芳です」
普段笑うことがないのか、表情はぎごちないが穏やかで優しそうな声だった。対面して目が合ったのは一瞬で、多喜夜は求を家に招いた。
「荷物は……それだけ? どうぞ。色々説明する前に何か飲むかい?」
「いえ! あの、それよりも庭を……。庭を見せてもらえませんか?」
それだけが関心ごとのように、求の目には玄関の上の大きなシャンデリアも、正面のゆるやかにカーブを描いた階段も目に入っていないようだった。
「何度も言ったけど、庭は……その、庭というよりは」
多喜夜はためらった。それだけを何よりも楽しみに来た求が、がっかりしてしまわないかが心配だった。言い訳のような言葉にもならない言葉を口の中でもごもごとつぶやきながら、多喜夜は庭に通じる扉まで案内をした。
求は待ちきれずリュックサックの中から日本野鳥の会の長靴を取り出すと、自ら扉を開けた。
「おおーっ! ……これは! すごい!」
竜の神様さえ絶望させた庭だ。求が逃げ帰ってしまわないか心配になったが、彼は植物の場外乱闘場に嬉々としてずんずんと足を踏み入れて行く。
「ひろーい! すごい!」
歓声が徐々に遠くなって、聞こえなくなった。そしてしばらく帰ってこないので、多喜夜は求が荒れ果てた樹海に吸い込まれてしまったのではないかと心配になった。足元に投げ出されたリュックは長靴が取り出されたら他には何も入っていなかったのか、ぺちゃんこになっている。
ぱたぱたと足音が戻ってきて、求が頬を紅潮させて戻ってきた。
「蘇芳さん、オレ、ほんとうにこの庭を自由にしていいの?」
多喜夜は求が今どう思っているのかがわからず、ゆっくりと頷くことしかできなかった。
「すごいや」
色彩を失った多喜夜には、求の瞳も、服も、そして庭も、灰色にしか見えない。それでも求がこの荒れ果てた場所を自分とは違う色で見ていることはわかった。求が話すたびに、希望とでも言うべき空気が彼から発せられているのが見える気がした。それはーーとびきりキラキラしている。
「オレっ! ずっと植物を育てるのが好きで、就職してから社宅のレオパレスでたくさんの植物を育ててたんだけど、忙しくてあんまり家に帰れなくて、ベランダもないから植物たちをあんまり日に当ててあげられなくて、でも頑張って伸びてくれた植物たちが、周りの部屋の人や道路に立っていた電柱まで伸びて、苦情が来て……」
多喜夜が作ってくれた昼食のパスタを食べながら、求はよくしゃべった。前職は浜松で観光客が来るフラワーガーデンで働いていたらしい。ここでは、駅前の観光協会に就職を決めていた。多喜夜は自分のぶんを食べ終わると、求がまだ話しているというのに立ち上がった。
「食器は食洗機に突っ込んでおいてくれればいい。事前にメールでも言っておいたけど、お互いの生活には基本的には関わらないで、特に僕のプライベートを覗いたりしないように。庭は好きにしていい」
それだけ言うとダイニングを出ていってしまった。
残された求は一人でパスタを平らげる。
彼がこういう態度なのはメールのやりとりをしている中でわかっていたので、特段ショックではなかった。自分や庭のことにあれこれ口を出されるよりはよっぽど気楽だ。多喜夜がどういう仕事をしているのかも求は教えられていない。
駐車場があるので、車を持ち込んでもいいと言われていたが、浜松で乗っていた中古車は車検間近だったので手放した。無ければ多喜夜の車を使ってもいいとのことだったので、しばらく必要なときは使わせてもらうつもりだ。仕事がはじまるまでにはまだ数日時間があるので、それまでにホームセンターに行きたい。どんな庭かを見てから道具も揃えようと思っていたので何も持ってきていないが、しばらくはガーデニングというよりはーーひたすら雑草取りになりそうだ。
屋敷ーー家、というよりはこう表現してしまうーーは、二階建てで、玄関を中心に左右に分かれている。求の部屋は二階の右側の三部屋並んでいるうちの一番奥だ。家具もそろっているので、ほとんどそのまま使わせてもらうことにする。二階の左側にも扉が三つ並んでいるが、ここは多喜夜のプライベート空間なので立ち入らないように言われている。どの扉が多喜夜の部屋なのかは把握していない。
隣は書斎になっていて、いろんな本が置いてある。別に背表紙のごつくて分厚い全集というわけではなく、最近の本もたくさんある。小説もあるし、画集も多かった。その中で、背表紙が真っ白で何の本がかわからないものが何冊も並んでいるものがあった。手に取るとこれも画集のようで、しかも並んでいる本はすべてまったく同じ本だ。
おんなじ本をなんで何冊も買ったんだろう? と思って裏表紙を見たが、値段も何も書かれていない。何だか気味が悪くてすぐに戻した。
自室に入り、二階から見下ろすと庭はやっぱり広い。小さな公園くらいの面積があり、元々は誰かが庭を整備していたのか、石畳の通路で仕切られて、いくつかの花壇に分かれているように見える。今は地面も割れて、そこから雑草も伸びてきてそれどころではないが。
日当たりもいいし、伸び放題の雑草たちにとってはそう悪い環境ではなかったのかもしれない。地面を雑草で覆い隠して、誰かが入ってくるのを拒んでいるようにも見えた。
*
求の特技は、誰にでもすぐに顔を覚えてもらえることだ。
引っ越してきて一週間、毎日同じホームセンターに通っていたら、いつもいる従業員たちに手を振って挨拶してもらえるようになった。
「あっ、中本! おまえ、わざとか?」
すっかり気安くなったおとこを見つけて詰め寄る。中本一哉はこの店の店長代理で、引っ越した当日、求が下着から私服から靴まですべてをこのホームセンターで揃えようとしたときに接客をしてくれて、話の流れで同い年であることがわかって仲良くなった。
「キュウちゃん、今日はどうしたの?」
「『キュウ』がないじゃないか!」
「なんのこと?」
求はガーデニング用品売場で騒いでいた。木でできた一文字ずつのアルファベットのオーナメントを指差して、
「『キュウ』だよ、『Q』!」と言う。
「『Q』? 売れない文字なんて仕入れないよ」
「売れないとは失礼だな! まさにオレが買いに来たっていうのに」
「何に使うの?」
「尋ねたな? よく聞けよ? オレが住んでる家の庭をイチから作ってるって話はしただろ。その庭に名前をつけることにしたんだ。その名前というのが、オレの名前と、リスペクトしているイギリスの王立植物園キューガーデンズをかけて『Q.GARDEN』! いい名前だろ」
「キューガーデンズの『キュー』は『Kew』じゃないか」
「お、おまえ、意外に教養があるところを見せてくるなよ」
「田舎のホームセンターの店員だからって馬鹿にするなよ」
中本はえへん、と胸を張った。
「オレだってキューガーデンズのキューがQじゃないことくらいは知ってるよ。でもそのままの名前をつけるわけにはいかないから、だからQがいいんだよ! このオーナメントでオレの庭の看板を作りたいんだ!」
「看板って、まだキュウちゃんちの庭荒れ放題のまんまじゃないか」
求の住む家は表(家側)と裏(庭側)の両方とも道路に面している。中本の通勤経路が庭側の道で、あの荒れた森が個人の家の敷地だったと聞いて驚いていた。森の奥に見える屋敷に人が住んでいたことも。このあたりは、バブル期に別荘として所有されて、建物は立派だが、現状誰も管理していない家がたくさんあり、求の住む家もその一つと思われていたようだ。
「家側の方から手入れを進めてるんだよ! しかしQだけないってひどくないか? Qだってふつうに単語の中に使われるだろ……クエスチョンとか……クエストとか……」
「家の庭の看板に『QUESTION』なんて表示するやつがいたらちょっと心配になるよ……。あと、Xもないよ。売れないから」
「Xはいいよ、いらないから。Qを仕入れてくれよ」
「Qなんてレア文字、メーカー在庫あるのかなあ。数字の九じゃだめ?」
後ろから、求の良いわけないだろ! という声を受けつつ、中本は事務所に戻っていった。田舎のホームセンターらしく、この季節は駐車場を一部つぶして花や野菜の苗が大量に売られている。自宅はまだ花を植えられる状態ではないにしても、いつかは。この町にもガーデニングを楽しむ人がいるのだと思うと嬉しくなった。
もう少し、とは思うが、実際はかなり途方も無い作業であることを求は認めつつあった。現時点では、花苗を植えるどころの話ではない。まだ人が足を踏み入れる余地さえほとんどないのだ。樹木がところどころに生えているので草刈り機を使うわけにもいかず(持ってないし)雑草たちは手作業で抜いているが、彼らはあまりにしっかりと根を張っているので引っこ抜こうとしても一筋縄ではいかない。
今年中にここを庭として完成させるのは難しいとしても、せめて夏までに何らかの花は植えたい。しかしそれすら難しいかもしれないなと感じてしまう。
自宅に帰って来て、草抜きの作業を行う。ある程度進んだところでふと上を見ると、二階から多喜夜が下を見ていた。求は笑顔で多喜夜に手を振る。多喜夜は少し頭を動かして奥へ引っ込んでしまった。ぺこりと求に挨拶をしたような、「よくやっているな」という現場監督の目線のような。多喜夜は外に勤めに出ている様子ではなかった。求が仕事に行っている間に食料品などを買いに行ってはいるようだが。ちなみに、求の食事はすべて多喜夜が作ったものをいただいている。どうせ作るから一緒に食べるか、と聞かれたのでその日から家賃に食費を上乗せして支払った。
「はかない人だな……」
そうつぶやいて、どうしてそう思ったのか、自分でも不思議だった。
はかない、とは、消えてなくなることがわかっているもの。たとえば、花のように。
翌週、求がホームセンターをぶらぶらしていると、パートタイムの女性が中本に
「店長代理、キュウちゃんが来たよ」
と、親戚の子が来たみたいに呼びに来たが、彼は求に用事があるわけではないのでいちいち呼ばないでほしい。
求がきょろきょろとして何かを探している様子なので、中本が近づくと求は敵の大ボスを見つけたような顔をして
「おまえー!」
と絡んできた。
「今日はなんだよー」
「先週、あんなにあった苗はどこ行ったんだ?」
「苗?」
「駐車場まで売り場を拡大して、あんなに売ってたじゃないか! ヴィオラとか、マーガレットとか、マムとか!」
「あれ、もう売れちゃったよ」
「一週間で?」
うん、と中本は頷く。
「そんな勢いで言うけど、キュウちゃんちまだ花を植えられるような状態じゃないだろ」
「それは確かに……そうなんだけど……でも、ちょっと好きだった芸能人がいきなり結婚したみたいな喪失感を感じたんだよ」
「その芸能人がキュウちゃんと結婚する可能性はそもそもゼロだよ」
「しかも、好きといっても対して熱心に応援しているわけじゃないやつなんだよな」
求の勢いはすっかりしぼんでしまった。
「でも、この町に熱心にガーデニングをしている人がそんなにいたんだな」
「いや、ほとんど一人の人が買っていったよ」
ほよ、と求は中本を見た。中本はしまった、という顔をした。
「あれだけの量を、一人?」
「うん……でも、お客さんのことだから話せないよ。今のも聞かなかったことにして」
求はそれ以上聞かなかったが、この近くに仲間(になりそうな人)がいると知って、今にも町中を走り回ってガーデニングをしている家を見つけに行きそうな勢いだ。
「あ……そうだ。キュウちゃんに見せたいものがあるんだ」
中本は苦し紛れに求を木材コーナーまで誘導した。利用者が買った木材をその場で加工することができるコーナーへ連れていく。
中本が出したのは木で作られた『Q』の文字のオーナメント。
「えっ、……お、おまえ、これ……」
「作ってみたんだけど、これどうかな?」
求はオーナメントを手のひらに乗せ、わなわなと震えて……
「こころの友よー!」
と言って中本の首に抱きついた。
「わはは、メーカーも作ってからの発送だっていうから、時間かかるだろうし、おれが作ってみたんだ」
「ありがとう! おまえいいやつだな! グーグルマップの口コミで高評価投稿しておくぜ!」
*
「それ、『朝雛の奥様』ね」
次の日、求が職場の観光協会でその話をすると、パートタイムの女性からあっさりと情報が出てきた。
「あさひなのおくさま?」
「たまにテレビに出ているガーデニングで有名な方の別荘がこのあたりにあって、その方がプライベートガーデンを作っているらしいわよ。テレビで見るととっても素敵なマダムで、ああいう女性になりたいのよねー。名前? 名前は忘れちゃった」
求自身、園芸界隈にアンテナを張っているつもりだが、『たまにテレビに出ているガーデニングで有名な』朝雛という人物には心当たりがなかった。しかし、そんな人が近くに別荘を持っているというのならばぜひその庭を見てみたい。なんとか出会う方法はないだろうか。
まずは思いつくキーワードで検索してみたが、これだと思える情報は出てこなかった。いくらガーデニング界で有名人だからといって、さすがに少し検索しただけでは自宅や別荘の場所などは特定できない。SNSをやっていればもう少し手がかりが掴めるかもしれないが、まず朝雛という人物が誰だかわからない。ガーデナーとして活動しているときは名前を変えているのかもしれない。
適当に町を回ってみたらこれだという家を見つけられるだろうか。まだ仕事をはじめたばかりなので雑務しかしていないが、観光案内所で働いているのだから、実際に町のことを知らなくてはいけない。趣味と実益を兼ねて町のあちこちを車で巡ってみようか。
さっそく次の日車を借りることを多喜夜に告げようとしたら、上手い具合に彼はキッチンにいた。
「多喜夜さん! オレ、今日車使ってもいい? ……って、なにこれ!」
ひょい、とキッチンを覗いたとたん、
「いい匂い~」
オーブンレンジがゴウゴウと唸って働いている。そこから、甘くて香ばしい香りが漂っている。多喜夜は食器を洗いながらりんごをかじっていた。
「使ってもいいが、もう少し待って、途中まで乗せてもらえると助かる」
「どこに行くの?」
「ここから五分くらいの知り合いのところに、これを届けに行く」
「……多喜夜さん、人付き合いしてたんだ……」
「おい」
人付き合いどころか、家から一歩出たところさえ見たことがなかったので求は素直に驚いた。
「何を作ってるの?」
オーブンを覗き込むと、中で何かがぐつぐつと炙られている。
「アップルパイ」
「作れるんだ! すごい」
「別に、レシピ通りに作れば誰でもできる」
求はおいしそうだなあ、と言う言葉を飲み込んだ。そう言ってしまうと、作って欲しい、という意図で受け取られるだろう。食べたいのはいつわりない気持ちではあるが、さすがにそれは厚かましいと思ったのだ。
「うん、わかった。じゃあオレ、それまで庭にいるね」
求はキッチンをあとにしながら、あんなふうに手作りのホールケーキを手土産に持っていくなんて、いったいどんな人に会うのだろうと考えた。ホールで作るくらいだから、もしかして複数人いるのだろうか。りんごの季節ではないのにわざわざアップルパイを作るくらいだから……以前にもそのアップルパイを食べて、美味しかったからまたリクエストしたということだろうか。そう考えたら、さらに食べたくなってしまった。
アップルパイが焼けて、少し冷めるのを待って、二人は車に乗り込んだ。
パイの中にはカスタードがはさんであるらしく、あっという間に車の中には香ばしいりんごと甘いクリームのにおいが充満した。
多喜夜の案内でしばらく走ってたどり着いたのは、彼らの屋敷に負けず劣らず立派なコテージ式の別荘だった。五台ほどは車が停められそうな駐車場には自分たちのカングーの他にもう一台、品川ナンバーの鮮やかなミントブルーのFIATが停まっている。
「良かったら、お前も来るか? ここの別荘を持ってるのも、ガーデニング好きな方なんだ」
多喜夜がそう言うので、求も是非と言って一緒に車を降りた。
玄関のチャイムを鳴らすと、ドアが開いて壮年の女性が顔を出した。
「多喜夜くん、いらっしゃい! 久しぶりね」
「こんにちは」
「今、ちょうと子どもたちも裏にいるから、どうぞ。あら、あなたは……」
多喜夜が求を紹介しようと振り返ると、求は口をあんぐりと開けて女性を凝視している。
「お、お、おまえは……矢吹恵子‼」
「あら」
「ここで会ったが百年目……! って、いたっ!」
女性がきょとんと求を見た瞬間、多喜夜は求の頭をこつんと叩いた。
「人を呼び捨てにするとは何だ」
「あっ、えっ、ご、ごめんなさい」
求はぺこりと頭を下げた。
「いいのよ。こんな若い方に知っててもらえるなんて、嬉しいわ」
恵子はサンダルを履いて家から出ると、二人を裏庭に案内した。求はぽかんと口を開けたまま固まっているが、多喜夜が無理やり引っ張ると慌ててついてきた。
建物の裏に若いおとこが二人いて、バーベキュー台で熱心に炭に火を起こしている。
「あ、蘇芳さん。お久しぶりです。いらっしゃい。ケーキ持ってきてくれたの?」
年上の方が愛想よく笑いかけてきた。
「こちら、息子。兄の誠人と弟の雅人」
二人がぺこりと頭を下げたので、求も同じようにする。
「恵子さんのこと、知ってたのか」
多喜夜が求に訊いた。
「そりゃあ、矢吹恵子と言えば、今のガーデニング業界でカリスマ的な人気のガーデナーで、各社ガーデニング雑誌で見ない号はいないし、日本全国のフラワーパークのプロデュースをしていて、そして……オレの倒すべき人! ……いたっ」
多喜夜がもう一度求をはたいた。
「倒すとか失礼なことを言うな」
「ご、ごめんなさい」
「あら、嬉しい。若い方にライバルとして見てもらえるなんて、私もまだまだ現役で戦えているってことね。あなた、確か浜松の……」
恵子は求の瞳を覗き込むようにして見た。
「はい、浜松のフラワーパークにいた夏来求です。今は転職してしまったけど……」
「うちに住んでもらって、うちの庭を任せてます」
多喜夜が補足する。
「多喜夜くんの家の? いいなあ! とってもやりがいがありそう。私ももっと、自分の趣味に走った庭を作りたいのだけど、ここじゃあまりスペースがなくて」
息子たちがバーベキューをしている奥には塀で囲まれた空間があり、入り口に小さな門が設置されている。
「多喜夜さん、ここって……」
「恵子さんの別荘」
「正確には私じゃなくて、再婚した相手の別荘だけど。荒れ放題になってたからもらって手入れして、プライベートガーデンにしてるの」
「もしかして、朝雛の奥様って……」
「私のことね。再婚相手が朝雛っていうの。どこかで噂になってるの? あんまり目立ちたくないんだけど……」
恵子はため息をつくが、女性にしては背が高く、大きな木のような頼りがいと生命力を感じさせるこの人が目立たないのは難しいのではないか、と思った。浜松で働いていたとき、求は大勢のなかの作業スタッフの一人だったけど、ふと恵子がやってきて、作業を褒めてくれたときにとても感激したことを覚えている。
「せっかくだから見る? これから手入れしようと思って来たから、荒れちゃってると思うけど。普段は近くに住んでる方に様子を見てもらってるんだけど、その人にいつもお願いするのも心苦しいし、できる限り自分でやりたいのよね」
その言葉を待っていたように、求はうんうんと激しく頷いた。
「蘇芳さん、火ってこんな感じでいいの?」
弟の雅人が多喜夜を呼び、彼はバーベキュー台に近づいていった。多喜夜がいいんじゃないか、と言うので兄弟はクーラーボックスから肉のパックとコーラを取り出す。
「食べる?」
早く庭が見たくてそわそわしている求に、雅人が声をかけた。彼は高校生くらいの少年で、髪がさらさらとして、目がくりくりとして可愛らしい。兄は弟の可愛らしさを精悍さに成長させたような好青年で、弟よりも快活に笑っている。
「食べて食べて。この子たち、お小遣い渡したら全部肉に変えて来ちゃったの。自分たちと同じくらい私も食べると思ったんですって。週末のたびにここに来て、庭の手入れを手伝いたいって申し出てくれるのはいいけど、バーベキューと多喜夜くんのお菓子が条件なのよね。っていうかむしろそっちがメイン」
誠人がひたすら網の上に肉を並べていくのを見て、求は立ち止まってしまった。早く庭が見たいのは事実だが、さっきアップルパイのお預けをくらって、胃の中が何か隙間を埋めてくれるものを求めているのも確かだ。
「しかも全部カルビよ。ハラミがあれば少しは私も食べるのに」
雅人は母の言葉に、肉に種類なんてあるのか、という顔をしている。
迷っている間に、皿と箸を渡されて、誠人が求、多喜夜、雅人の皿に焼けた肉をひょいひょいと乗せていく。両隣の二人がもぐもぐと食べ始めたので求もそれに倣う。
食べながら、雅人がじっと求を見ていることに気づいた。じろじろと見られることには慣れているが、美少年に見つめられるとさすがにくすぐったい。
「……あれ、きみ、どこかで見たことが」
ふと、求のほうが雅人に見覚えがある気がして、首をひねった。
「ああ、CM、放送されていたね。見たよ」
多喜夜が雅人に声をかけた。
「CM?」
「制汗剤のCMだっけ?」
雅人がこくりと頷いた。
「メインはアイドルの女の子なんだけど、その彼氏役でコマーシャルに出てるんですよ、こいつ。あんまり顔は出てないんだけど、よかったな。気づいてもらえて」
兄が言い、雅人がまた肉を食べながらこくりとした。
「そうなの、勝手にスカウトされてアルバイトでモデルなんかはじめちゃって」
「スカウトされたんじゃないよ。先にモデルをやってた友達に誘われて撮影現場に行ったら一緒に撮ってもらえたのがはじまり」
そう言いながらひょいひょいと肉を取っていく弟に、兄は炭が爆ぜて手を火傷したらどうするんだと言って、自分が焼いてやるから待ってろよ、とたしなめるが、雅人は俺は自分のタイミングで食べたいと言って譲らない。
「火傷なんて赤チン塗っておけば大丈夫よ」
「赤チンって何」
「赤チンの方が火傷より目立つじゃないか」
「その赤チンはパソコンで消してもらうの」
かみあっているようないないような母子の会話である。片田舎で土いじりをしている自分には考えられない都会的な生活だな(赤チンはともかく)、と思いながら配布される肉を食べる。多喜夜が肉を食べるのを珍しいなと思って見ていたら、彼も数枚でもう結構、と言って皿を置いたので、山のような肉を結局兄弟と求の三人で消費することになった。
肉を平らげると、兄弟は縁側でゲームをはじめている。傍らに麦茶を置いて、まだ早いけれど夏休みのようだ。
求はとうとう恵子が庭を見せてくれると言うので、どきどきしながら彼女についていく。
「おまえ何をもって恵子さんをライバル視してたんだ」
多喜夜もそれに同行し、求に声をかける。
「それは……」
求は本人を前にしてさすがに言いにくそうだ。
小さな門、求たち成人男性はもちろん、大柄な恵子にも少し狭いと感じるくらいの門を開けて彼女のプライベートガーデンに足を踏み入れる。石畳の道が左右両側に分かれて円を描いていた。左右どちらにも植物が並んでいて、おそらくホームセンターで買った植物たちがじゅうたんのように並べられている。その奥にはチューリップが控えめに並んでいる。恵子はもともと雑貨などのデザイナーをやっており、仕事の関係で英国に住んでいるときにガーデニングと出会い、そのセンスを生かして庭のプロデュースをはじめて注目された、という経歴だ。この庭も英国式で、キラキラした花の色数よりも一見乱雑で自然のままのグリーンが多い。
ガーデニングの盛りのシーズンを前にまだ咲いている花は多くないが、まつぼっくりで作られたオーナメントや、木で作った星型の飾りが木や花の茎に飾られており、寂しさを感じさせない。しばらく進むとレンガで囲まれた花壇があり、そこには求の腹の高さくらいの位置にクリスマスローズが植えられていた。
冬にも花をつけるクリスマスローズは下向きに咲く花なので、足もとに植えられると花がほとんど見えない。そのため、少し高さを出して植えられているのだろう。暖かくなってきて花にとっても過ごしやすいのか、茎もみずみずしく伸びやかだ。
丸く作られた道に囲まれた中心部分は芝生になっている。日がぽかぽかと当たって、もう少し温かくなったらここで過ごしたら最高に気持ちがよさそうだ。ピクニックシートをひき、編みかごのかばんにサンドウィッチと紅茶セットを持ってきて過ごす美形の兄弟……いや、彼らはここでも肉を食べている方が似合うかもしれない。
奥はバラ園になっており、今は茶色く休んでいる弦たちがレンガの壁を伝っているが、徐々に芽を出し始めているのを見て恵子も目を輝かせている。多喜夜の家の庭よりは狭いが、ここを一人でデザインし、管理しようと思うとそうとうな労力だ。
恵子がいろいろ説明してくれるのを聞いているのかいないのか、ほうけたような顔で求はふらふらと後をついていく。
良かったらゆっくり見てね、と恵子が言い家に戻っていくと、求は奥に設置してあったガゼボの椅子にふらふらと座り、何やら体をまとめて膝をかかえた。
「おい、求……?」
見るからに落ち込んでいる彼を見て、多喜夜は心配になって声をかけた。
「う、う、うわあああ! 勝てない!」
膝に顔を埋めて、求は嘆いている。
「そもそもガーデニングに勝つとか負けるとかあるのか……?」
「オレ、あいつに仕事を奪われたんだ……」
年上の人間をあいつ呼ばわりとは、と多喜夜はたしなめたい気持ちになったが、とりあえず話を聞くことにする。
「前に働いていたフラワーパークで、新しい庭を作ることになって、オレ、デザイン責任者に立候補したんだけど、園の方針で職員からじゃなく外部の有名なガーデナーに依頼することになって、あいつが来たんだ! オレのガーデナーのデビューのチャンスを……! そのときに上司だった人とも喧嘩して、職場に居づらくなって……」
「そうなんだ。うちの母がごめんね」
いつの間にか兄弟が来て同席していた。
「いや……それで恵子さんを恨むのは筋違いもいいとこだろ……」
母への恨みを聞かされて、息子の心の健康に悪くないだろうかと多喜夜は心配したが、二人はけろりとして求の様子をむしろ楽しんでいる。
「って、なんでいるんだ息子たち!」
「アップルパイ食べるから呼びに来たんだ」
「お、オレも食べていいの?」
「一緒に食べようよ」
美少年に言われて、求はあっさりと頷いてガーデンを出た。
「いいなあ、夏来さん、多喜夜さんと一緒に住んでいるってことは、多喜夜さんのアップルパイいつでも食べれるんでしょ」
アップルパイは恵子も食べると言うので、一ホールの三分の二ほどを五人分に切り分ける。残った分は東京に持って帰って食べるらしい。多喜夜が勝手を知っているようにキッチンで紅茶を入れて持ってきた。兄弟はアップルパイにアイスを乗せている。求は完全に客としてご相伴に与る。
兄弟はアップルパイを絶賛し、多喜夜は穏やかに微笑んで喜んでいる。こんなふうに多喜夜が優しい顔をするのを求は見たことがなかった。
家に帰ってからも求は落ち込んでいて、リビングのソファに逆に座って(床に寝て、座面部分に足を乗せて)うんうんと唸っている。
多喜夜は黙って夕食を作り、テーブルに並べていたら求がふと彼を見て
「そういや、多喜夜さんと恵子さんはどういう知り合いなの?」
と訊いた。
「昔、仕事をもらっていたことがある」
多喜夜は簡潔に答えた。
多喜夜の請け負っていた仕事とは何なのか、仕事のつながりが終わっても交際が続いているのは何故なのか、今は何をしているのか。
アップルパイ、リクエストしたら、作ってくれるのだろうか。
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