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第二話 鳥かごと間違えていた 振り向いて海から離れてどこだって行く

 四月の半ばを過ぎると、陽射しが強く、日中外で作業していると汗が止まらなくなる日も増えてきた。  今日も朝から求の悲劇の声がガーデンに響き渡る。 「うあああああ! イノシシめー! 殺してやるー!」  荒れ果てた地の必死の整備のかいがあり、土の部分と石畳の通路の境目は見えるようになった。雑草類もほぼ抜き終わり、花を植えるためのスペースも確保できた。  まだまだマイナスをようやくゼロに近づけた程度で、ガーデンとしての形にはなっていないが、せっかく春が来たのだし、早く花を見てみたくて、先週、ホームセンターで葉っぱが出ている状態のチューリップをいくつか買ってきて庭の端に植えた。  ほとんどつぼみが出かけているものだったので、いつ花が咲くかとわくわくしながら求は毎日水をやっていたのだが、今日起きたら花壇がひどく荒らされていて、葉は踏まれ、土は掘り起こされて、そして球根が食いつくされていた。求は日本野鳥の会の長靴をはいたまま、ぽかんと立ち尽くした。  昨日までの大人しい庭が何故こんなことになったのかがわからず戸惑っている求に、多喜夜は足あとを見て、おそらくイノシシに喰われたのだろうと告げた。 「イノシシなんているの?」 「いる。何なら人間よりいる。おまえも走って通勤するの止めて、うちの車を使った方がいいかもしれない。出産時期だから気が立っているし、出産してからは子どもを守るために凶暴になる」  求は思いもよらない事態を飲み込めていないようだった。しかし、考えてみれば近くには林や荒れ放題の空き家ばかり。野生動物が住み着いていてもおかしくないし、通りすがりのイノシシにとっては、裏側の道路から何の柵もなく入れてしまうこの庭は恰好の餌場だっただろう。 「でも……そうなると、この庭をきちんと作るときには害獣対策もしないといけないってことか……。たしかに、素敵なレンガの壁は作りたいけど、それだけで防げるのか……? あと壁を作ってしまうと、外から通りすがりの人に見て素敵だと思ってもらえないしなあ」  しばらく逡巡としたあと、最終的に、今出来ることがイノシシを憎むことしかないことに気づき、求はじたばたとした。 「うう、ごめん、チューリップたち、オレの管理が甘かったばかりに……」  求の情緒がまた不安定になっていたので、多喜夜は彼に一通の封筒を差し出した。 「……なに?」 「恵子さんから、おまえに」  受け取って中身を見ると、チケットが二枚入っていた。  第X回 バラとガーデニング展20XX  埼玉で行われるガーデニングの催しの招待チケットだった。もう何回も行われているガーデニングでは有名な催しで、求も名前だけは聞いたことがあった。  封筒にはチラシも入っていて、五月のゴールデンウィークの次の週に、埼玉県にある野球場で行われるらしい。チラシの表紙には堂々と恵子の写真が掲載されていて『今年のメインガーデンは矢吹恵子プロデュース』と大々的に書かれている。  有名なガーデナーたちが模擬ガーデンを作り、バラの新品種の発表会、一般人による寄せ植えコンテスト、企業ブースでは花苗の販売、ガーデニング用品の販売など、盛りだくさんの一週間だ。有名ガーデナーのトークショーのスケジュールもチラシに書いてあり、それは前売り券を買わないといけないほどの人気だという。イベントの主催は国営テレビ局だ。 「すごいな、おまえのライバル。全国のガーデナーの一大イベントでメインガーデンを任されるなんて」  求は恵子と自分のとてつもない距離に沈黙するしかない。 「でも、チケットを送って来たってことは、おまえのことを忘れていないってことだ」 「そうか……。って、これよく見たら一般来場日前日のプレス日限定入場券じゃん! 多喜夜さん、予定大丈夫?」 「……いや何で僕の予定が」 「二枚あるんだから、一枚は多喜夜さんのでしょ」 「行かない」 「なんで? 行こうよ! オレ運転するからさ。多喜夜さんはずっと寝てていいよ」 「……」  多喜夜は沈黙し、長らくの空白のあとで 「行けたら行く」  と言った。 *  招待を受けたガーデニング展当日、開場時間ちょうどくらいに着くように家を出たが、会場のかなり前で渋滞にはまってしまった。 カーナビでは、この先はずっと一本道で、その先には会場である野球場しかない。 「会場からここまで、ずーっとガーデニング展に行く人で並んでるのかなあ? 今日入れるのって取材の人だけでしょ?」  求は何故か家を出るときからかけているサングラスを外し、首を伸ばして前方を確認するが、まだ駐車場の入り口ははるか遠くだ。多喜夜は改めてチラシを見て、 「……今日はプレスと、特別チケットを持ってる人も入場できるらしい」 「特別チケットって、オレたちみたいな招待券ってこと?」 「それもあるだろうけど、一般の人でも特別料金を払えば買えるらしい」 「ふうん。いくらくらいなんだろ」  求が何気なく尋ね、多喜夜がチラシに載っていた金額を告げた。 「……ええっ?」 「運転中によそ見をするな」 「いや、だって……そんなに?」  そのまぬけた顔が面白く、多喜夜はほとんど目を閉じたみたいに笑った。  多喜夜がこんなふうに笑うのを見るのもはじめてだ。求はますます多喜夜から目が離せなくなったが、前の車が動いたので慌てて顔を戻した。  多喜夜はギリギリまで一緒に行くことを渋っていたが、求が最終的に一緒に行こう行くんだ行かなきゃやだ、とじたばた暴れたので多喜夜が根負けしたような形になった。 「高いと思うか? でも、ここに今のガーデニングのすべてが集まるんだぞ。現に、チケットを買ってまで開場前に来る人がこんなにいるんだし。どんな人が来てるのか、見てみるといいよ」  結局、予定より一時間遅れでようやく駐車場に入ることができた。  二人が入口に向かうと、すでに会場から大きな荷物を抱えて出てくる人とすれ違った。恵子と同じくらいの年齢の女性が、植物の入った袋を何袋も抱えている。 「植物も売ってるのか」  会場は野球場であるので交通機関のアクセスは良いが、あんなに買うのだったら、たしかに車で来る必要があるな、と求は同じような大量買いの客を見て思った。  会場に入り、中の地図が載ったパンフレットを渡される。グラウンド一面が催し会場になっていて、正面にはウェルカムガーデンとして生花が飾られた大きなイベントタイトル看板。ほとんどの客がそこで足を止めて記念撮影をしている。  看板をくぐると企業ブースが並んでいて、ガーデニングに関係があるものや、関係のないものまでたくさんのものが売られている。見たところ、ガーデニング雑貨よりは植物を売っているブースの方が盛況のようだ。  会場の中心には恵子がプロデュースしたイベントのメインガーデンがあった。  オードリー・ヘップバーンが愛した庭を再現したというそのガーデンは、会場のメインを飾るにふさわしく色とりどりの植物がきちんと高さが揃えられて植えられている。一般客はガーデン内に入ることはできないが、ガーデンの中心にテレビカメラに囲まれて華やかな女性がいると思ったらテレビでよく見かける女優だった。たしかこの催しのアンバサダーとしてパンフレットに写真も乗っていた人で、囲み取材を受けているようだ。  メインガーデンの周りには小規模の模擬ガーデンが配置してある。どれも恵子に負けず劣らず名のあるガーデンデザイナーたちがデザインした庭たちで、西洋風の小さなレンガ造りの家のささやかな庭、暖かな日が当たる森、日本家屋の縁側と植物たちと個性が光っている。その奥では、新種のバラのお披露目会を行っていた。珍しい植物を自分の庭に植えるために、購入目当てのガーデニング好きの客もいれば、カメラが趣味の客もいるようで、ごつい望遠レンズをかついだような客は恵子やガーデンデザイナーたちの再現ガーデンをメインに回っているようだ。アマチュアのガーデナーたちのコンテスト結果も発表されていて、事前審査で入選したガーデンや、寄せ植えが飾られている。ガーデンコンテストには、その庭をデザインをした団体の看板が立っている。多くはガーデンの施工を請け負っているデザイン会社や求が前に働いていたような植物園のチームで、高校や大学の園芸部の名前もあった。  企業ブースはガーデニング関係のものを売るだけではなく、ワインやマッサージ機や音楽用のスピーカーなど、一見ガーデニングには関係のないものを取り扱っているブースもあるし、全国の花スポットの観光地のPRを行う自治体の出店もあった。来場する客層に合わせたり、付き添いの人たちも退屈しないようにしているのだろうか。  一般開催日前だが、取材の人間よりも特別チケットを買っているガーデニングファンの人間の方が明らかに多く、会場はかなり混雑している。早々に買い物をした人たちも、いったん車に植物を置いて、また買い物を繰り返しているようだ。  目の前で珍しくて高価な植物が飛ぶように売れていく。  イベントの熱気は、求の気持ちも多分に漏れず高揚させているようで、自分もガーデニングを行う人間として、この輪に入って何か買わなくては、と気持ちだけ焦ってしまう。 「おい」  多喜夜が人酔いしている求の頭をぺちっと叩いた。 「落ち着け。うちの庭はまだ植物を植えられる状態じゃないだろ」 「そ、そうか……。そうだよな……。でも、もう五月なのに……。もう植えないと、花が見られない」  元はと言えば、多喜夜がちょっとやそっとの手入れでは復活できないほど庭を放置してしまったことが原因であるため、落ち込む求を見て、少しだけ申し訳無さを感じた。  ちょうど近くで協賛企業がドリンクを無料で配布していたので、二人はそれを受け取って球場の客席に席を取った。客席は休憩スペースになっていて、自由に座っていいらしく、高いところから会場を見守っている人もいれば、食事を取っている人もいる。野球場の周りにある飲食店は通常通り営業しているため、牛丼やケンタッキーも食べられるようだった。 「恵子さんはどこかにいるのかな」  求がふと思い出して会場を見回した。  恵子は昨日までにあのメインガーデンを作り上げ(どこかで作っていたのを持ってきて組み立てたのだと思うが)、この催しの頭をはっていると言っても過言ではない。疲れていても休む間もなく取材に囲まれているのだろうと思ったが、チケットを融通してもらったのだからどこかで会えるなら挨拶くらいはしておいた方がいいかもしれない。  調べてみると、企業ブースの中に、恵子が庭園をプロデュースしている公園をメインにPRをしている自治体があった。恵子は過去求が働いていた浜松のフラワーパークの他、北海道や群馬の観光施設のガーデンのプロデュースもしており、あちこちにひっぱりだこなのだ。   そのブースを覗いてみると、もう間もなく恵子が出版した本のサイン会を行うという看板が出ていた。そのときに話す機会があるかな、と思っていたらサイン会の時間が近づくごとに周りに人が増えてきた。ブースの前にサイン会用のテーブルと彼女が新しく出版するガーデニングの本が並べられ、これを買うとサインしてもらえるらしい。  一人の女性が、サイン会はどちらに並べばいいですか? と尋ねると、ブースのスタッフは並ぶほど人が来ると思っていなかったのか、えっと驚いて上司に相談に言ったようだった。よく見れば、周りはサイン会を意識している人々で空気がそわそわしている。  スタッフの一人が、サイン会へのご参加希望の方はこちらにお並びください、と周辺に声をかけると、近くにいた女性たちが一斉にそこに並び始めた。あっという間に隣のブースにはみ出るほどに人が並んでしまったので、スタッフが隣のブースの迷惑にならないように折り返して並ぶように手配すると、すぐに三、四回折り返す必要があるほどの行列ができた。サイン会の時間は三十分とポスターに記載されている。これはもしやのんびりしていたら恵子と話せないのではないかと気づいた求は慌てて最後尾に並ぶ。金曜日の昼間であるので主婦層が中心だが、求のような若い男性もいてきらきらした瞳で列に並んでいる。ブースを見てみると、恵子の等身大パネルが立っていて彼女のプロデュースの庭の写真と並べられて、記念撮影をしている人もいた。ブースでは洋服も販売していて、これは恵子がデザインをしている洋服ブランドらしい。服も作っていたとは。よく見ればサイン会に並んでいる女性の多くが似たようなテイストの服を着ていて、もしやこのブランドの服なのだろうか。求がフラワーパークで働いていたときも、恵子がプロデュースした庭を見るために、旅行の目的地としてわざわざ遠くから足を運んで来る人がたくさんいた。同じような庭をもし求が作ったとしても、名の知られていない求では恵子のように人を呼ぶことはできなかっただろう。フラワーパークの運営の判断は正しかった。恵子にはこんなにも人を惹きつける力がある。  恵子は時間ギリギリになって、特にガードマンに守られるでもなく、偉そうにするでもなく、どこからか一人で優雅に歩いてやってきた。彼女も自分の洋服ブランドの服を着こなしていて、サイン会に並んでいる女性たちから感嘆のため息が漏れていた。スタッフに「ここに座ればいいのしら?」と尋ね座ると、ペンを取って本にサインをはじめた。  実際にガーデニングをしている人が多いのか、来る人来る人話が尽きず、列の進みは遅かった。求のあと数人並んだところでスタッフが立って、サイン会の受付はここまで、と告げていた。  ようやく求の番になると、恵子はパッと笑顔になった。 「求くん! 元気だった? 来てくれて嬉しいわ」 「招待状、ありがとうございました」 「おうちのお庭、どう?」 「まだまだですが……、ここですごく勉強になりました」 「嬉しい。素敵なお庭がたくさんあるから、ぜひ見て行ってね。多喜夜くんは一緒じゃ無いの?」  恵子の問いに、ふと気が付いて多喜夜の姿を探すと、彼はブースの中で恵子の息子……兄の方と話している。恵子が多喜夜に手をふると、多喜夜はぺこりと会釈をした。 「ぜひ私を倒してね」  そう言って、彼女のサインを入れた本を渡された。  サイン会が終わると、彼女はまだ周りで様子を見ているギャラリーたちやブースのスタッフににこやかに挨拶をするとまた一人でふらりとどこかに行ってしまった。  恵子の息子の誠人も、彼女が案の定自由に動けないというので、母の代わりに彼女に頼まれた植物を買いあさっているらしい。買ったものは別荘のガーデンに植えられるだろうというので、また来てね、と誠人も去っていった。ブースには彼女のブランドの服も販売されていた。レディースのサイズしかなかったが、彼女が手書きした花の絵が描かれているものがあったので手に取ってみる。今サイン会に並んでいた女性たちで同じものを着ている人が何人もいて、人気なんだなあと思って値段を見てみると、求が今身につけている靴を含めたものを全部足した値段より高い。Tシャツ一枚にそんなに値段がするのが信じられずに、セット価格かと思っていたら、他にもスカーフ一枚で求の靴ほどの値段がついている。ちなみに彼が今身につけているもののなかでは靴が一番高い。求は助けを求めるように多喜夜を見たので、多喜夜は、おそらく彼女の服は少ロットでの作成だから、おまえが着てるユニクロみたいに大量生産の服より単価が上がる、みたいなことを説明した。  求は時間ギリギリまで粘って展示されている庭を見て、会場を出ると何やら足取りが怪しい。 「倒せるのか……あの人を」 うわごとのように呟いているので、さすがに多喜夜が運転を名乗り出た。気が付けば、求は後ろの席でサングラスをかけたまま爆睡している。

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