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第三話 見えないと思っていたがどこまでもきれいな世界は変わっていない

六月。早朝から庭の手入れをしているが、もう暑いと感じる日が増えてきた。出勤前に花ちに水をやり、雑草を抜いて、咲き終わった花を摘んでやる。そのあとシャワーを浴びないととても仕事へ行けない。しかし今日は休みであるのでとりあえず手を止めて朝食を取ることにする。  冷蔵庫を開けて、たまごを取り出して、ふと、多喜夜の姿をここ三日ほど見ていないことに気づいた。  多喜夜は基本的にずっと自室にいて、食事や風呂の時間を、おそらくあえて求とずらしている。そのため顔を合わせることはほとんどないが、 しかしそれでも食事を取ったり、風呂を使った気配は感じる。  でも今は――うまくは言えないが、屋敷の中で、彼の存在を感じない。  出かけてはいない、と思う。家を空けて外泊していたとしても何か問題があるわけではないが、その時はさすがに求に声をかけてくるのではないか。  何よりも――ここ数日、冷蔵庫に新しい食料が追加されていない。  別に食事が作られなくても、いくらでも自分で作ればいいのだし、外に食べに行くこともできるし、求が困るわけではないが、冷蔵庫に保管されている食料がだんだん古くなるのを放っておくのは多喜夜らしくない。  急に暑くなって、体調を崩して寝込んでいるなんてことはあるだろうか。生活に口を出すなとは言われているが、さすがに声をかけたほうがいいのではないか。 「……ん?」  求はふと窓を見た。何かが窓の外で動いた気がしたのだ。 「気のせいか……」  外には何もない。米を三角に握って、のりを巻いて、みそ汁と焼いた魚をお盆に乗せてテーブルにつく。最初に生卵をおでこで割って口に入れると、 「……?」  また、何かの気配を感じた。  今度は気のせいではなく、窓の外に白い風船と青い風船が浮いていた。 「おおおお? お前ら!」  求は思わず立ち上がった。 「もとむ! たーたん、あそび来た!」 「ぶーちゃんもあそび来た!」  青い風船がたーたん、と白い風船がぶーちゃん、風船の真ん中にまん丸の目がふたつ。そして背中から生えている頼りない羽。 「よくここがわかったな」 「ここ、まえにも来たことある」 「ここのおじさんの色もぶーちゃん、うばった!」 「ここのおじさんって、もしかしなくても多喜夜さんのこと? そういえばあの人も色が見えてないみたいなこと言ってたかもな……」  引っ越す前にメールでやりとりをしていたときに、そんなことがさらりと書かれていた気がする。しかし、今更ながら――それにしては、多喜夜の作る食事は彩りが豊かだし、色が変わっているのに気づかないで食材が傷んでしまったということがない気がする。 「お庭のもじゃもじゃ、なくなった。竜のかみさま、おまえのこと評価してる」 「そりゃどうも……神様って、まあ神様だから仕方ないのかもしれないけど、偉そうなんだな」 「かみさま、えらい!」 「かみさま、かっこいい!」  二つの風船は無邪気に求の周りをくるくるとまわった。 「もとむ、白いちょうちょ、いつくる?」 「ちょうちょ?」 「たーたん、ちょうちょ食べたい」 「今いるの、ちゃいろい」  竜の子はふわふわと求の周りを漂う。おにぎりを食べるのに気が散るので、求は二匹の竜の子を向かいの席に座らせた。 「今うちの庭を飛んでるのはイチモンジセセリだな。あれもいちおう蝶だと思うけど……。っていうか食べるのか。蝶を」  爬虫類だから、虫を食べるということか。爬虫類、なのかはわからないが……。  食事を終え、皿を洗って庭に出ると、二匹は求についてきた。  まだ涼しいうちに、植物たちにたっぷりと水をやる。 「あ、そうだ。お前たち、あそこの窓から部屋の様子を見てきてくれよ。ちょっと前から多喜夜さんを見てなくてさ。いるのかいないのかわからないんだよね」  竜の子たちはわかった、と元気よく言うと、ふよよよ、と風船が空に上がっていくように飛んで、多喜夜の部屋の窓に向かった。  求はその様子を見ながら、軽く頼んでしまったけど、もし多喜夜が部屋の中にいて、彼らを見たらびっくりするだろうな、と思った。いや、多喜夜もこの子たちに一度は会っているはずだから、別に驚かない、か?  そう思っていたら、二匹が少し慌てた様子で下に降りてきた。 「もとむ、たいへん!」 「たちや、死んでる!」 「えっ、ええええ?」  まさか本当に部屋で倒れていたなんて。求は持っていたじょうろを放り出して多喜夜の部屋に駆け出した。  階段を上がり、ほとんど踏み入れたことのない二階の左側のフロアに行く。ここにも三つの扉があり、いちばん手前の扉の下の隙間から、黒い液体が流れ出ていた。 「うわああああ! 血だー! 多喜夜さん! 多喜夜さん!」  求は慌てて扉を叩いたが、返事はなく、扉には鍵がかかっている。 「まさかほんとに死んで……き、救急車……いや警察……?」  求は震える手でスマホを取り出すと、人生ではじめて救急のボタンを押した。  電話が繋がり、同居人をしばらく見ていなくて、鍵のかかった部屋から血が流れ出ていて……と、求は要領を得ないまま思いつく限りを伝えた。GPSで場所の特定はされたらしく、すぐに行きます、と言われて電話が切れた。  求は多喜夜の部屋の扉を力任せに引いた。古い立て付けなので、力を入れたらドアがギシギシと軋んで動いた。一人でも何度か力を加えれば扉を壊せるかもしれない。 「二人とも、手伝ってくれ!」  竜の子に声をかけると、二匹は顔を見合わせて頷いた。 *  周りが騒がしい。  起こされて、自分としてはそのタイミングではないのに起きなくてはいけない、嫌な目覚め方の気配を感じた。  聞こえてきたのは救急車のサイレン。それ自体は珍しくないが、近づいてきたかと思うと通りすぎず――これまで聞いたことがないほどハッキリと聞こえてきた。  すぐにサイレンは止まったが、その後でバリバリ、と何かが壊れる嫌な音がした。 「多喜夜さん! 多喜夜さん!」  ふと体が動かされたかと思うと、体のすぐ近くで声がして、無理やり精神と肉体を結び付けられる感覚がした。  不快に眉をゆがませながら目を覚ますと、救急隊員の姿。そして大泣きしている二人の子ども。いや一人は求だ。 「……なんだ?」 「い、生きてる! 多喜夜さん! オレがわかる?」 「血だらけというのは?」  救急隊員が求に尋ねている。  ……血? 確かに、顔がべたべたとしている。手にも、確かに液体がべったりとついているが、色の見えない多喜夜にはこれが血なのかわからない。 「血、じゃない……?」 「だって、緑ですよ」  救急隊員に言われて、求は驚いた。 「ご、ごめんなさい! オレ、実は緑が見えないんです! 真っ黒にしか……。だから、黒い液体を血だと思って……」  救急隊員たちはそうですか、と冷静に言い、念のため多喜夜に怪我がないかを確認しながら、簡易的な装置で血圧をはかる。 「ちょ、ちょっと待った。何だ、これ? どうした……?」  ようやく状況を把握した多喜夜がきょとんとする。 「多喜夜さん、血を流して死んでたんだよ! いや、血はオレの勘違いだったんだけど……。あと、この部屋すごいね! 多喜夜さんの部屋ってこんなかんじだったんだ……」 「死も勘違いだが?」  多喜夜はようやく把握した。慌てた彼が救急車を呼んだということか。恥ずかしい。大丈夫だということを示そうと立ち上がろうとしたら、くらっとした。確かに、いつから寝ていなくて、そしていつから寝ていたのかわからない。 「脱水状態かもしれません。立ち上がらないで」  そう言って救急隊員に経口補水液を渡された。それをゆっくりと飲む。  手厚い介護を受け、しかし命には別状がないと判断し、救急隊員は帰っていった。 「いや、まあ……心配をかけたのは悪かった。……確かに、夢中になると周りが見えなくなって過集中してしまうというか……」  求が持ってきた麦茶を飲みつつ、べたべたになって顔や床に流れてしまっていた絵の具を掃除して、多喜夜はため息をついた。 「……ところで……、この子供は誰だ?」  多喜夜が尋ねたのは、いつの間にかそこにいた小学生くらいの子供だった。瞳が右はグレー、左は青色で、潤んだ様子がゼリーのようにきれいだ。 「オレも知らない」 「おれたち、ぶーちゃんとたーたん! たちやがピンチだったから、ひゅーじょんした!」 「ええっ? お前達、人間になれたのか?」 「たちや助けるのに、力いる! ぶーちゃん六歳、たーたん六歳、合わせると十二歳になる!」 「その理屈は正しいのか……?」  確かに、目の前の子どもは十二歳くらいであるが。 「だそうです」 「なんにもわからん」  多喜夜が冷たくいうので、少年はぶー、っと膨れるとぽんっ、と音を立てて竜の子二匹に分かれた。 「そもそも、竜ってのはこんなたましいみたいな形なのか」 「えっ? たましいってこういう形なの?」 「ぶーちゃんもたーたんも、竜!」  二匹はぷーっと丸くなった。怒ったフグのようだ、と求は思った。 「まあ、これで、見知らぬこどものことは解決で……、オレからの質問! 多喜夜さんって、絵を描くんだ……」  求は改めて部屋を見渡した。  求の部屋がある二階の右側は、三つの扉があり、三つの個室になっているが、この左側は扉は同じく三つあるが、一つの大きな部屋になっていた。部屋の端から端までがとても遠い。  天井も高いこの部屋には、無数のキャンバスが立てかけられていて、そこには様々な絵が描かれていた。 「この絵、知ってる! モネの睡蓮だよね? あと、これも……タイトルはわかんないけど、見たことある。あ、あれモナリザだ!」  求がきょろきょろとするのを、多喜夜は苦々しい顔で見ている。 「この絵、多喜夜さんが描いてたの?」 「いや、モネの絵を描いたのはモネだ……」  多喜夜は深くため息をついた。 「この絵は、有名な絵画をそれに似せて……というかできるだけ正確に模写して僕が描いてる。本物は買えないが、写真やポスターじゃなくてちゃんと絵の具で書かれた絵を置きたいっていう人はいるからな。そういう人に売ってるんだ」 「多喜夜さん、そういう仕事してたんだ」  求が目を丸くした。 「でも、……多喜夜さんって色が見えないんじゃないの?」  飾ってある絵たちがいつ描かれたものかはわからないが、少なくとも多喜夜が倒れていたところの正面にあった描きかけの絵は今描いているもののはずだ。そしてそれは、彼の灰色の世界とは違い、色彩に満ちている。 「見えてない。けど、生まれつき見えないわけじゃなくて、去年から見えてないだけだからな。それまでの経験で、脳内に色さえあればいくらでも描ける」 「ええ……? そりゃあ、色が見えてるときに見た絵画の色を覚えていることはできるかもしれないけど、絵の具は……」 「チューブに色名が書いてあるんだから何も困らない」 「でも絵の具って混ぜたりするでしょ?」 「どの絵の具をどれだけ混ぜたらどうなるかくらい、知っている。濃淡はこの目でも見えるしな」 「がーん」 「かみさまのバツ、なんにも効いてない……」  竜の子がショックを受けている。 「四十年、人付き合いもせず絵を描いてきたのをなめるなよ」  そういって竜の子にすごむ多喜夜は少しだけ自慢げだ。 「で、次はお前だ」  多喜夜が求を見た。 「緑が見えない、だって?」  先程口走ったことをちゃんと覚えられていて、求は口をつぐんだ。 「……色盲か?」 「いや、そうじゃなくて……」 「もとむの緑も、かみさまのばつ!」  白い竜の子が言った。 「お前は何をしたんだ?」 「いやあ……考えなしに植物を育て過ぎちゃって」 「社宅なのに、おうちもじゃもじゃにした!」 「みんなびっくりした!」  求むはてへへ、と頭をかく。求の場合、多喜夜とは違い植物への愛ゆえだと思うが、それもだめだったのか。 「しかし、緑……」 「大丈夫だよ、多喜夜さん! 緑が見えなくたって、植物はちゃんと育つよ。オレ、この庭をちゃんと作ってみせるから!」  求は自信満々に笑顔を見せた。  今回のことで、また救急車を呼ぶような騒ぎになってはいけないし、逆にこれに慣れて本当に死んでいるのに気づかなかったらそれも大変ということで、二人は一日に一回は顔を合わせるように(主に多喜夜がリビングに行くように)、そしてもし一日以上会えていない場合、心配になったらお互いの部屋を開けていいことに取り決めをした。 「ところで、この扉……」 「ご、ごめんなさい! ホームセンターで材料買ってきて直すから!」 「いや、普通に修理業者を呼ぶ……」  その後は日常に戻り、求は一日植物の世話をして、二匹の竜の子は庭で遊び、昼にはそうめんと麦茶を食べ、アイスを食べて、夕方には家(どこなんだろう?)に帰っていった。夏休みにおばあちゃんの家に来たみたいな過ごし方である。  眠る前、求は多喜夜の部屋を思い出していた。リビングやキッチンのたたずまいから、勝手に無機質な、シンプルな――何でもない人だと思っていた。けれど本当の彼のプライベート空間は、あんなにもごちゃごちゃしていて、絵の具だって飛び散っていて、わくわくするようなおもちゃ箱みたいな場所だったなんて。

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