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第四話 こんなこといつもだよって笑ってる地球規模の引っかき傷
梅雨は終わりかけの時期になったが、何年か前からこの時期には台風ではないのに台風並みの雨風が日本のどこかを襲うようなことがある。職場の人に聞くところによると、伊豆はその形から、台風が上手く陸を避けて太平洋側をなぞるような形で移動する予報でも、伊豆半島だけは引っかかってしまい、日本の他どこも被害が出ていないのにこの半島だけ電車が止まったり停電になることがあるらしい。
やっと土を入れて、花も少しずつ増やし、形になってきた求の庭だが、今日は雨なので作業はしない。せっかくの休日なので手入れも進めたいのだが。雨の日は水をやらなくていいので楽だが、植えたばかりの花たちはまだ根がしっかりしていないため、強い雨が降ると花たちが流されてしまわないかが心配だ。
とはいえ、雨なのは彼にはどうしようもできない。これを利用し、彼はリビングで自分のガーデンの計画を立てることにした。求は庭を四つの区画に分けて、それぞれ春・夏・秋(冬)をテーマにしたゾーン、そしてバラ園を作りたいと思っていた。
春のゾーンには、桜の木をシンボルに。これはもともとこの庭にあった木で、ソメイヨシノではなくフジザクラである。ソメイヨシノより後の時期に淡くて小さなピンクの花をたくさんつける。今年の春にも花をつけていたのだが、その頃は庭全体が見えていなかったため、求がまだそこまでたどり着けていなかったのだ。
夏のゾーンは、大きなアジサイを新しく植える。葉っぱも花も通常のアジサイより大きく、あの竜の子くらいなら雨宿りに隠れてしまえそうなものを。秋は紅葉の木を。バラ園はガーデンの中でもさらに壁で囲って、一本で立つ大きな花を咲かせるものを一本一本並べるのはもちろんだが、つるバラを壁一面に這わせる。入り口にはアーチを設置し、そこにもバラを咲かせたい。 実はバラ園にする箇所には、すでにいくつかのバラを植えてある。つぼみが付いているものをホームセンターで買ってきて、多喜夜に見せてやったら彼も少しは興味があったのか、一日一度は外に出て、つぼみが膨らむ様子を見守っている。
春夏秋冬、それぞれのゾーンにシンボルツリーを一つ置いて、その周りを植物たちで囲む構造だ。
設計図を描いて、それを遠くに置いてよく見てみる。
自分の頭の中ではきちんとイメージできているものなのに、絵にすると何かが変だ。クーピーで塗った緑は、求にはグレーにしか見えないが、それを除いても。
先月、多喜夜の部屋に飛び込んだときに彼が描いていた絵を思い出した。彼が倒れていた(正確には寝ていたらしいが)とき、彼が描いていた庭の絵。あれは、たぶん、この家の庭だ。背景の建物がこの家だったから。まだ作られていない庭なので、実際の庭とも、求が作ろうとしている庭とももちろん違う。多喜夜は求にこういう庭を作って欲しいと思っているのだろうか。
いずれにせよ、あの絵をもう一度じっくり見て自分の庭の参考にしたいと思ったが、部屋には入れてもらえないだろうな、と求は眉間にしわを寄せた。
ふと、引っ越してきたばかりのころ、書斎にあった画集のことを思い出した。あれにもきれいな庭の絵がたくさん載っていたっけ。
書斎に移動すると、覚えていた位置のままにその画集たちは置いてあった。ここにある本は多喜夜の蔵書だと思うが、そう言えば彼がここで過ごしているのを見たことがない。求は仕事や庭仕事で建物の中にいることがあまり無いから、気づかないだけかもしれないが。
それはともかく、画集だ。最初に見たとき、庭の絵が多い本だと思ったが、最初から見ていくと人物や置物だけの絵もあった。それでも屋外の風景が多い。花の絵や庭の絵があると、そこに描かれている花が何なのかを考えて、それが推測できると嬉しい。
「……これ、すごいな?」
求は思わずつぶやいた。
絵のことはよくわからないが、こういうものは想像ではなく、本物を見て描くもの、なのだろうか。描かれている庭の花の高さや季節がちゃんと揃っている。自然の描写が豊かなアニメでも、咲いている植物の時期がズレていて、一緒に咲いているのはおかしいな、と思うことはよくあるのだが。しかし、だとしたら、ここに描かれていた絵のモデルになった庭がすばらしいということになる。実在しているならばぜひ見てみたい。外国だろうか、と思って、そのときようやくこの絵を描いた画家の存在が気になり、本のあちこちを探してみたが、よくわからない。
表紙のカバーには小さめの絵が載っているだけで作者名はおろか、本のタイトルのようなものもない。背表紙にも裏表紙にも何も書いていないし、値段も書かれていない。表紙をめくるといきなり絵がはじまっていて、そしてひたすら絵が載っているが絵の解説文やタイトルなども載っていない。画集というのはこういうものなのだろうか? 売る本ではなく、描いた人が個展をするときなどに私的に作ったものなら値段が書かれていなくてもいいのかもしれないが。多喜夜も全く人付き合いをしないわけではないだろうし、誰かの絵の展覧会に行くこともあるだろう……か? いや、これが多喜夜の画集と考えた方が自然だろう。作者なら、同じ本を何冊持っていても不自然ではない、と思う。つまり、売れ残ったのだ。
そんなことを考えていたらスマホが鳴ったので確認したら、上司から『明日は案内所を閉めるから仕事は休みにする。家から出ず、安全を確保するように』という連絡だった。
案内所を閉めるなんて、そんなに大変なことになっている(これからなる)のか。この雨風が台風にでも変わったのかと思い、求はテレビを見ようとリビングに向かった。 途中、階段の踊り場で多喜夜が窓の外を見ていた。書斎には窓がないため気づかなかったが、雨は叩きつけるように窓に振り付けていて、彼はそれを憂鬱そうに見ている。
「多喜夜さん、オレ、明日も仕事休みになった。これからそんなに雨が降るのかな?」
声をかけると、多喜夜は夢から覚めたような顔をして、はじめて気がついたように求を見た。 雨音がうるさくて、足音が聞こえなかったのだろうか。
「そうかもな」
熱心に外を見ていた割に、多喜夜は興味のなさそうな顔で答えた。
ふと、画集のことを訊ねてみようかと思った。あなたが今までどうやって絵に出会って、今ひとりぼっちで描いているのか知りたい。オレの庭は、あなたの絵になれるだろうか。しかしそれを今確かめる気には――何故だか、ならなかった。求はリビングに行くため多喜夜の後ろを通った。
多喜夜は振り返って求に何か言おうとしたが、彼はそれに気づかず階段を降りていった。
リビングでテレビをつけると、臨時ニュース番組で天気予報が流れていて、伊豆半島の明日までの予想雨量がひどいことになっている。これは本気で家から出ないほうが良いし、何なら水道管が割れて水が供給されなくなったときのためにお風呂に水を溜めておいたほうがいいかもしれない。そういえば、この家非常持ち出し袋はあるのだろうか? そしてもし避難することになったらどこに行けばいいのだろう? 川が近くにあるわけではないので、氾濫して家の中まで浸水することはないと思いたいが、停電などの可能性は大いに考えられる……。
そんなことを考えていたら、眠くなってきた。真面目に考えていたはずなのに。
天井の高い屋根を雨が叩く音。外に出たらうるさいのだろうけれど、部屋の中だとなんだか良いBGMになってしまう。外にも出られないし、明日も休みだし……。
耳元でどかんと大きな音が鳴り、求は飛び起きた。
いつの間にか、リビングのソファでぐっすりと眠ってしまったらしい。薄暗い中でテレビだけがぼんやりと光っている。今のは雷でも落ちた音かと思ったが、ただの、ものすごく強い雨の音らしい。寝ている間にいよいよ雨がひどくなって、先程までの眠気を誘う雨音から、ただの雨だけなのに、とても眠れそうにないほどの轟音になっている。時間はわからないが、もう日が沈んでしまったのか、室内は真っ暗だ。
しかしそれにしても音は大きく……部屋の中に風を感じる。
まさか、どこか窓が割れてしまったのだろうかと慌てて風の流れてくる方に向かうと、庭に続く扉が開いていて、その先に多喜夜が立っていた。
「多喜夜さん‼ 何してんの!」
驚いて、大きな声で彼を呼んだつもりだったが、多喜夜はほとんど外に出ていて、求の声も届いていないようだった。廊下は雨が振り込んで水たまりが出来ている。
そのままふらふらと道路に行ってしまいそうな彼の腕を、求は掴んだ。求も靴下のまま外に出て、シャワーよりも強く雨に打たれている。バケツの水をかけられているようで、コンタクトが流れてしまいそうだ。
「多喜夜さん! 危ないよ!」
求がぎゅっと彼の腕を引くと、多喜夜は抵抗せずそこに留まった。
「でも、庭が」
豪雨の中、多喜夜の小さなその言葉が求に届いた。
求は、そこではじめて今の庭の様子を見た。そこは――庭、ではなく、ほとんど池に変わっていた。
それなりに増えていた花はどこにも見えず、土は道路に流れ出ていた。道路は道路で、高台になっている方から川のように流れている。量はくるぶしを超えたくらいしかないが、勢いが早く、もし足を取られてしまったら万が一ということもある。こんな雨になるとは思ってもいなかった。世界が終わるのかと思った。
「多喜夜さん、危ないから家の中に入ろう」
「お前の庭が」
「そんなの! 今は身の安全の方が大事だよ! それに……」
求は
「もう、遅いよ」
とてもつらいことを言葉にした。
なんとか多喜夜を家の中に入れて、彼をバスタオルで包んだ。
夜中かと思っていたが、時計を見たらまだ夕方だった。
「何か、一緒に食べようよ。オレ作るから」
外にいたのは数分なのに、服のままプールに飛び込んだように全身が濡れていた。多喜夜には着替えるように促して、自分も着替えて、水が入り込んでしまった廊下を拭いた。幸い、窓が割れるようなことはなかった。扉を閉めるとずいぶん静かになって、家という場所の重要さを実感した。
多喜夜は部屋から出て来ないかもしれないと思ったが、着替えを持って風呂場へ行くとシャワーを浴びて髪を乾かして、彼は静かにやってきて食卓に座った。求は二人分作ったチャーハンを二つに分けてそれぞれの前に置いた。
「……すまんな」
多喜夜がぽつりと言ったが、求には何に対して謝られているのか計りかねた。
「オレの方こそ、謝らないと。多喜夜さんの庭、台無しにしちゃって」
「お前はそんなにショックを受けてないみたいだな」
「事前に支柱立てたり……ある程度の対策はしてたけど、でもこんな嵐になってしまったら、もう仕方ないよ。自然のことなんだし」
自然のこと。そうかもしれないが、多喜夜は悲しんでいた。
「身勝手を承知で言うが」
多喜夜はふと顔を上げて求を見た。手を伸ばし、机の上に置かれていた求の指先に、わずかに触れる。
「お前の作る庭が見たい」
指先の一点だけの接触。そして多喜夜の切実な声に、求は思わず自分の手を重ねて多喜夜の指をぎゅっと握った。
「オレ!」
頬を紅潮させて多喜夜をまっすぐに射るように見る。いきなり手を握られて、多喜夜は自分の方から触れたくせに手を引こうとした。しかし求から逃げられなかった。
「オレも! 多喜夜さんが好き」
思いがけず熱のこもった声。
射抜かれて、多喜夜はしばらく言葉を失った。
「え、いや……『も』って、なんだ、『も』って……。いや、好きって……」
多喜夜は戸惑いを隠せないまま視線を泳がせた。
「好きとか言ってないが。僕は」
「ええっ?」
求はさも意外そうに目をぱちくりとさせた。手はまだ握られたままだ。
「そういう意味じゃないの?」
「ち、違う……」
どこに、そう受け取られる要素があっただろうか。多喜夜は少し不安になってしまった。
「でも、オレのこと大切でしょ?」
求は意外にも食い下がってきた。握られる指に力がこもった。
「それは、まあ……」
あくまで一般的な意味だが。しかし求はそれで満足したらしく照れくさそうに笑った。
「オレ、頑張るから」
ふわっと笑い、手を離された。つながっていたものが離れてしまったことに、多喜夜はほんの少し寂しさを感じたが、気のせいだと思うことにした。
その後は、チャーハンを食べて、それぞれの部屋に入った。
何だったのだろう、さっきのあれは。
求の顔と、声が頭から離れなかった。好きだ、と言われた。
一般的な意味だ。あくまで。……たぶん。
嫌われるようなことをしていないから、嫌いじゃないから好きと表現しただけで。
あんなに切実な、おとこの顔。
多喜夜は深く息を吐いた。
*
次の日には雨が止んでいた。それどころか雲ひとつない晴天である。あんなに存在感のあった雨雲は、もうこの世のどこにも存在していないなんて。本当に昨日のあれは台風ではなかったのだろうか。求が外に出ると、庭は、案の定悲惨な状態だった。何故か地面が中心に向かってえぐれている。
もっと状況が悪いのは、道路だ。昨日、川のように流れていた正面の道路は、どこからか流れてきた土で、泥の道になっていた。この状態で車を出したらタイヤのみぞが詰まってしまいそうだ。それが、高台から駅の方に向かう下手まで、ずっと続いている。空は晴れているが、これは確かに、案内所も休みにするしかない。求は歩いてでも職場に行けるが、他の人は車で通勤しているので困っているだろう。
「地道にやるしかないか……」
スコップを持って、日本野鳥の会の長靴をはいて、求は、まず自宅の前の泥をスコップで掬ってどかした。
やっていることはほとんど雪かきだが、雪と違って道の脇に退けるわけにはいかないので、とりあえず自分の家の庭に持ってきて、えぐれた地面に落とす。一回そうして、スコップで救える量に絶望したので、すぐに裏から台車を持ってきた。園芸家でよかった。
しばらくすると多喜夜が玄関から顔を出したので手伝ってよ、と手を降ると、さすがに彼もスコップを持った。テレビではこの地方の昨日の雨量が記録を更新したと伝えていて、雨は上がっているが電車は止まっており、場所によっては停電しているらしく、ここは電気が通っているだけでも幸運だ。
そのうち近所の人も出てきて、協力しながらなんとか車が通れるだけの道の確保を目指す。
午後になると、泥が乾いてきて、砂埃がひどくなった。
求は、コンタクトが傷つく! と泣きながらマスクとサングラスを持ってきて作業を続けた。
「あ! キュウちゃん! 庭大丈夫だった?」
軽自動車がゆっくりと坂道を降りてきて、乗っていた中本が声をかけてきた。
「俺もこれから店見に行くところ。あちこち、床上浸水しちゃってる家もあるみたい」
口を開けると砂が入ってくるため、求はスコップをぶんぶんと振って答えた。
「消防が見回ってるみたいだけど、まだ水引いてないところもあるし、あんまり崖の方とか近づいちゃだめだよ」
巻き上がった砂埃が収まってから……、求はうつむいて数度目をこすった。
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