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17.2 遠い日の邂逅

 まだ小学生だった頃、旭は親の展示会によく連れられてきた。と言っても、親は仕事のために画商や来場者と話をするばかりで、旭は一人放っておかれることが多かった。そしてその場合、大抵旭は会場外のどこかに座って、スケッチブックに向かっていた。  その日もいつもと同じく、会場の外にはアートと言う名のおかしなオブジェが鎮座する公園があった。暑さも和らいだ晩夏だったが、旭は木陰になったベンチを陣取り、スケッチブックに公園の風景を写し取っていた。日曜日ということもあって、公園から見える道路には多くの人が行き交っているが、旭は自分の絵の中に人の気配を混ぜなかった。 「何を描いてるんだ?」  旭の集中を遮ったのは眠そうな低い声だ。ビクッと肩を震わせてから振り向くと、十代半ばくらいの男が旭のスケッチブックを覗き込んでいた。彼の視線からスケッチブックを隠すように身体ごと横を向き、ベンチの背に手をかけた彼を見上げる。 「お兄さん、誰? 変質者?」 「展示会の客」 「じゃあ展示会の絵を見に行けばいいのに」  あからさまに邪険に扱ったのだが、彼は鉄面皮のまま首を振った。 「俺は君の絵の方が気になる」 「あっちはプロの絵。俺はシロート。どっちを見るべきかは明らかだろ」  シッシッと追い払う手振りをすると、男は旭の小さな手を掴んだ。 「プロだとか素人だとか、肩書きは関係ない。君は将来、プロになるつもりはないのか?」  どうやら自分は面倒くさい人に絡まれているらしい。子供ながらにそう悟った旭は、適当に話し相手になってやってあしらうことにした。 「嫌だよ。俺の親、プロの画家だけど、親と同じってなんか嫌じゃん。親の七光りとかって言われてさ」 「そういうものなのか。俺は、親と同じ職業を目指してるのに」  お前の個人的な話なんて聞きたくないんだけど、と言いたいのをぐっと堪える。 「へー、何になりたいの?」 「弁護士」 「弁護士って具体的にどんなことしてんの?」 「困っている人を……助ける」  男の返事の仕方がやけにたどたどしくて、旭は今の状況も忘れて本気で吹き出してしまった。 「アバウトすぎだろ。弁護士は法律に詳しい人だってことくらい、小学生の俺でも知ってるのに。お兄さん、弁護士になりたいって本当?」  急に笑顔を見せた旭に、男も少し表情を柔らかくした。 「親と同じ弁護士になることも、そのために勉強することも、疑問に思ったことがない。……ちゃんと考えた方がいいんだろうか」 「そんなこと小学生の俺に聞くか?」 「君の意見が聞きたい」  子ども扱いせず真剣に意見を求められ、悪い気はしなかった。旭はスケッチブックを胸に抱いて「うーん」と考える。とは言っても、子供の旭に広い見識があるわけでもないので、自分だったらどうするか、と想像するしかないのだが。 「将来について疑問に思ったこともないくらい固い意志なら、それってもうお兄さんの土台の一部みたいなもんじゃねーの? 俺なんていっつも迷ってるからさ、目標に向かって脇見もせずに一直線に進めるのって、すごいことだと思うよ」 「迷う?」 「うん、サッカー選手になりたい日もあれば、なんかすごい学者になれる気がする日もある。親と同じ画家になるのも悪くないかなって思う日だって、たまーにはある」 「君は才能があるんだな」  彼の一言に、頭上の木の葉がざわりと揺れた。 「俺、才能って言葉嫌い。生まれつきの能力が何だって言うんだ? 才能があれば、できて当たり前だって思われる。才能がなければ、どうせできないから諦めろって言われる。どっちに転んでも不幸なんだ。馬鹿みたいだよな」  旭は幼馴染のことを思い出していた。「旭は何でもできて羨ましい」と彼は言う。まるで旭が努力せずに何でも手に入れているかのように。「お前もやればできるかもよ」と言い返すと、「親から向いてないことはやるなって言われてるんだ」としょぼくれる。旭は口にしなかったが、幼馴染のそんな姿勢を内心格好悪いと思っていた。 「なら、君はその能力でどう生きたいんだ?」  男の問いに、旭は描きかけの絵をじっと見つめた。 「生まれつき才能に恵まれてるなら、できて当たり前じゃないところまで行ってやる。生まれつきの能力で負けてても、頑張れば逆転できるかもしれない。そういうのってキツいと思うけど、かっこいいって思う」  その瞬間に頭に思い浮かんだのは、並んで絵を描く両親の背中だった。彼らは二人の力を合わせることで、一人の限界を突破した。両親への憧れが強くなった時、この手元のスケッチブックの中の世界は、まるで旭が飛び込んでくるのを待っているかのように手招きしてくるのだ。  自分の将来のことを考えていたら、話し相手がいることをすっかり忘れていた。ちらりと男を見ると、彼はまじまじと旭を見下ろしていた。 「本当は、弁護士になるには生まれつきの俺の能力だと足りないかもしれない。でも、君がかっこいいと言うなら、努力だけで上を目指すのもいいかもしれない」  大真面目にそんなことを言われても、どう返事をすればいいか分からなかった。 「俺にかっこいいって言われたところで、特に意味なんてないだろ」  照れ隠しでぶすっとそう言ってから顔を背けると、建物の入り口から両親がこちらを見ているのが目に入った。おそらく昼食か何かで呼びに来たのだろう。旭は彼らから声がかかるより先にひょいと立ち上がる。 「まーいいや。弁護士になったらさ、困ってる人を助けるんだろ? 俺が何かに困ってたらよろしくな」  そう言って立ち去ろうとした時、秋の匂いの混じった風が旭の髪を撫でる。その優しい感触と共に、背後から「旭」と名を呼ぶ声が聞こえた。慌てて振り向くが、そこには今話していた男しかいない。 「俺の名前……! やっぱりお前、なんかヘンだ。ストーカー! 変態!」  子供ながらに身の危険を悟った旭は、一目散に両親の元へと逃げ帰った。 ***  気分が沈むと昔の夢を見やすくなる。たとえすっかり忘れていた記憶だったとしても、旭の映像記憶能力は全ての記録を脳に残している。そのため、忘れていた出来事を唐突に思い出すということもままあった。  今の夢……あの男、アラタの雰囲気にそっくりだった。今よりちょっと子供だけど、仏頂面で、声も顔も感情が見えなくて。  むくりとベッドから身を起こしても、隣には誰も寝ていない。それもそのはずだ。アラタはついに昨夜、このベッドで一緒に寝るのをやめてしまった。いつまでも寝室に来ないからおかしいと思い、夜中に水を飲むフリをしてキッチンへ行ったら、リビングのソファから大きな体躯をはみ出させて眠る彼がいた。  何はともあれ、もう起きる時間だ。洗面所で顔を洗いリビングに顔を出すと、既にスーツに着替えを済ませたアラタが、真っ黒に焦げたトーストを齧っていた。  朝の「おはよう」もなければ、旭の分の朝食を一緒に用意してくれているわけでもない。昨日の一件以来、隠れてこっそりと繋がっていた二人の関係は、ばっさりと断ち切られてしまった。  なぜか食欲がわかず、旭はいつものパンには手を付けずに、インスタントの乾いた野菜スープをカップに入れた。 「なあ、俺たちここで会う前に直接会って話したこと、なかったか?」  ポットからお湯を注ぎながらぽつりと聞いてみる。 「……ない」  背後から聞こえた簡潔な彼の答えに、旭は「そう」とだけ相槌を打った。  スープの入ったマグカップは取っ手まで熱くなっている。そんなことを理由に、旭はカップを持ってテーブルに行くのを少し待った。 「次の発情期まであと二週間もないな」  独り言のように言ったせいか、アラタに向かって投げたつもりの会話は、キャッチボールにならず床に落ちた。 「もし、次にお前がうまく発情できたら、この状態のまますることになるけど、お前はそれでいいのか? 発情期以外もわざわざこうやって同居してる目的、果たせてるか?」  めげずにもう一度、今度は質問を投げかける。それでも、アラタからは何も返ってこない。 「なあ……俺は、お前の気持ちがよく分からない。なんでこんな関係になってまでお前はこの部屋に残ろうとするんだ?」  なぜだか息苦しくて、言葉尻が少し掠れた。 「俺も旭の気持ちがよく分からない」 「そんなの、俺だって知らねーよ。お前が来てから頭ん中ぐちゃぐちゃだ」  旭が吐き捨てると、アラタは椅子が軋む耳障りな音を立てて腰を上げた。彼の足音が一歩、また一歩と背後から近づく。しかし旭には何も起こらず、すぐ傍でシンクにガチャリと食器を置く音がした。そのまま彼の足音はキッチンを通過してリビングを出ていく。  そこでちょうどアラタを迎えにきたチャイムが、まるで旭を馬鹿にするかのようにピンポンと明るく鳴り響いた。

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