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18.1 破壊と再生

 それから三日後、旭は面会室で伯父と向かい合っていた。 「俊輔伯父さん、急に呼んでごめん」 「一か月ぶりだな。何か問題はないか? ……いや、問題があるから呼ばれたのか」 「問題っていうか、伯父さんの体験談が聞きたくて」  努めて明るく振る舞う旭に、俊輔は僅かに怪訝な表情になった。しかし彼に何か言わせるより先に旭が口を開く。 「俺、伯父さんとは付き合い長いからさ、分かってんだよ。あの、いつからか来なくなったキヨって人……伯父さんはあの人が好きだった。そうだろ?」  この会話は全て録音されている。伯父のプライバシーに関わる話をここですることに躊躇いがなかったと言えば嘘になる。それでも、どうしても聞きたかった。アラタの言う通り、そろそろ自分の気持ちを整理して自覚しないといけない。そのために、最後の後押しとなるのが俊輔だと思ったからだ。  笑って躱される可能性も十分あったが、俊輔はテーブルに置いた自分の拳を握り直した。 「うん。やっぱり、旭には分かってたんだな。でも、どうして突然今になってそんな話を?」  彼は気にしていないと言わんばかりに笑みを作ったが、その優男風の風貌はいつもよりずっと力なく見えた。  引き返すなら今だ。それを分かっていて、旭はその先へ切り込んだ。 「伯父さんは、あの人のことが好きだっていつ自覚した? 男が男を好きになる……認めるのに時間はかかった?」  何か察するところがあったのか、彼はもう「なぜこんな質問をするのか?」とは聞かなかった。長い沈黙があり、答えてくれないのかと思い始めた頃、ようやく彼は口を開いた。 「中学生になって、Ωの男がいるんだって意識し始めた頃、男同士っていう組合せでも子供を作って結婚してる人がいるんだなって考えたのがきっかけかな。僕はβで、幼馴染のキヨ……本当は清彦って言うんだけど、あいつもβで、最初はβの男同士じゃ無理だって思ってたんだけど、ある時ふと気付いたんだ。キヨより好きになった女の子なんて、いたかなって」 「いつかキヨより好きになれる女の子が現れるとは思わなかったのか? ずっと自分は男で、女の子と付き合うもんだと思って生きてきたんだろ?」 「そう思ってきたけど、やっぱり違ったんだって気付いたんだよ。旭にだって、後から心変わりすることくらいあるだろう?」 「心変わりなんて、そんな軽いもんじゃないだろ……自分の性別についてなんて」  性別も性的指向も、自分を形作るアイデンティティの一部だ。自分がΩだと知らされるあの日まで、旭はずっと自分は運動が好きな男の子だと思っていた。急に誰かから、「やっぱり君は男じゃなかったんだよ」と言われて「はいそうですか」となる訳がない。  ムッと口をへの字にする旭に、俊輔は小さく苦笑した。 「旭が僕をよく見てきたように、僕も旭をよく知ってる。旭は、自分がΩだっていうことに納得できなかった。でも、じゃあその時好きだった女の子はいたんだろうか? 旭がΩであることを拒否する何か、あるいは誰か……そんな具体的な理由はあった?」  反射的にあの頃のことを思い返してみても、頭を過ぎるのは男友達ばかりだ。そういえばいつもいじめていた女の子がいたような気もするが、自分がΩだと分かった後、その子について深く考えた覚えもない。 「そんなの、なかったけど……」  口籠る旭を俊輔は黙って見ていた。「その先もちゃんと自分で言いなさい」という親の眼差しが、旭の次の言葉を促す。 「俺は……自由でいたかった。Ωってだけで、将来を狭められるのが嫌だった」  Ωだと背が伸びないからスポーツ選手には向かない。Ωだと発情期に学校を休まないとならなくなるから、勉強が必要な職には就けない。自分ではどうしようもない生まれつきの何かに制限されるのは真っ平だった。それを受け入れてしまったら、いつも向き不向きで諦めている格好悪い幼馴染と同じになってしまう。旭のプライドはそれを許さなかった。 「旭は負けず嫌いだ。誰かに決められたことに反抗する気持ちが強いのもよく知ってる。だから、ずっと言わないようにはしてたけど、旭がΩっていう性を拒否するのも、とりあえず何かに反抗したい性格だからなんだろうなって思ってる」 「俺のこと反抗期の子供みたいに思ってたわけ? 思ってて、ずっと黙ってたんだ」  テーブルの上で震える旭の握り拳を、俊輔の手がそっと覆った。 「今までは言わなくても支障はないと思ってたから。旭がいつか本当に女性に恋する日が来るかもしれなかったしね。でも、今は違う。旭が男の人を、αを好きになった」  条件反射的に首を振りそうになって思い留まる。俊輔の目を見れば、取り繕っても無駄なことは明らかだった。それに何より、旭自身その結論にほぼ行きついている。こうして俊輔を呼んだのも、自分の出した答えを正当化してほしかったからに過ぎないのだ。  椅子に座っていた姿勢を正し、旭は粛々と白状し始めた。 「俺、本当に分からないんだ。Ωとして男と……ましてやαとくっ付くなんてあり得ないって思ってたのに。そんな運命、絶対お断りだって思ってたのに。だから自分の気持ちもうまく認められなくて」  両親を失ったあの日、旭も自分の身体の一部がぽっかりなくなってしまったような気がした。あの事件で得られた「αへの憎しみ」は、そんな旭の身体のなくなった部分を修復し、旭を再び動かす原動力となった。  しかし、今またこの身体は動かなくなっている。まるで子供の頃に作った義足をいつまでも使い続けているような違和感で、うまく前へと進めないのだ。 「Ωの否定」も「αへの憎しみ」も、全部壊して一から作り直さなければならない。そう分かっていても、馴染みのものを壊す瞬間には必ず躊躇いが生じる。大事にしてきた貯金箱を目の前に、その手のハンマーを振り下ろすことができないのと同じように。  助けてくれ。  無言で俊輔に縋り付く。彼は少し困ったように眉根を寄せた。 「αとかΩとか、男とか女とか、そういうのを全部無視して、その人が好きかどうか考えたことは?」  性別という人格に大きく関わる要素だけをすっぽりと抜き取るのは容易ではない。だが想像してみる。もし仮に、自分がΩであることを受け入れていて、αのことも嫌いでなかったとしたらどうだろう。  Ωを見下さず、αだからといって驕らず、自分を庇い、気遣ってくれる。懸命にコミュニケーションを取ろうと努力し、好意を露わにしてくれる存在。  彼の庇護の元で過ごす時間は居心地がよかった。「男のくせに男に守られるなんて」「αの慈悲などいらない」、そんな意地だけが、その心地よさにストップをかけている。 「本心ではその人が好きなのに、『αが憎い』、『自分はΩなんかにならない』、『運命に逆らってやる』、そんな反抗心で迷うくらいなら、それこそ旭はαやΩっていう性に縛り付けられてる」  俊輔の心は、旭の揺らいでいた心をぐさりと刺して固定した。 「旭が女の人を好きになったなら、Ωの性にいくらでも反抗すればいいと思う。でも、もし旭が男の人を好きになったなら、Ωの運命を受け入れて利用するのが、本当の自由ってやつじゃないのかな」  彼の言うことに、反論の言葉が思い浮かばない。  誰からも縛られまいとして自分を守る壁を作り、その結果自分自身の動きを封じてしまっている。傍から見たら酷く滑稽で子供染みているだろう。その馬鹿馬鹿しさに気付いた瞬間、自分の中でひび割れかけていた壁が、ついに音を立てて崩れた。  やっぱり俺はあいつのことが好きで、俺がΩなのも、あいつがαなのも、全部そのまま受け入れていいのかもしれない。抗うのをやめるからって、それは負けでも何でもない。運命でも、生まれつきの性別でもなく、俺自身が自由に決めたことなんだから。  俊輔の手が、旭の緩くなった拳をぽんぽんと優しく叩いた。 「旭はいつも自分がΩになったことを呪いのように言うけどね、僕は時々考えるんだ。もしも僕がΩでキヨの子供を産むことができたなら、キヨはまだ僕と一緒にいてくれたんだろうかって」  Ωである甥を羨むでもなく、離れていった友人を恨むでもなく、俊輔は寂しそうに空想を語った。 「子供が産めるか産めないか、そんなことで結婚相手を決めたんだとしたら、キヨって人は性別に縛られてたんだ」  そして俺も、キヨって人と同じになるかもしれない。それだけは絶対に嫌だ。  表情を硬くする旭とは対極的に、俊輔は穏やかに笑った。 「そんなこと関係なしに、僕と彼女を比較した結果なのかもしれないけどね。本当のところはキヨにしか分からない」  そこでドアの外からノックが聞こえる。きっと面会終了の合図だ。そちらに返事をする前に、旭はもう一度俊輔を真正面から見据えた。 「伯父さん、俺はやっぱり、自由でいたい。でも確かに、反抗することと自由でいることはイコールじゃないのかもな」  俊輔が「そうだね」と言った瞬間にドアが開き、薄暗かった面会室に白い光が差し込んだ。

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