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19.1 悪夢に堕ちる(1)

 昼下がりの寝室、旭はベッドの上でゴロゴロしながら、読みかけだった文庫を読んでいた。少し前にアラタは外へ行ってしまっており、室内はとにかく静かだ。もう五月の頭だというのに、窓のない地下室には外の陽気も入ってこない。  旭の方から一方的にアラタに好意を向ける日々はあれから二週間以上続いていた。  とは言っても、結局旭は言葉にして自分の気持ちを伝えるまでには至らず、夜一緒に寝ながら彼に身を寄せるくらいしかできていない。そしてアラタもまた、旭からのスキンシップに応えることはなかった。  傍から見れば、二人の関係は実に冷え切って見えることだろう。現に、検査などの折に旭を連れ出した研究員は、旭に憐みの目を向けたり、嘲りの言葉を投げつけたりしている。彼らはアラタを「この研究所側の人間だ」とでも思っているらしく、アラタが旭の好意を無碍にする様を見ては喜んでいた。その結果、アラタは最近研究員らと夕食を外で食べてくると言ってでかけることさえあった。  外野には勝手に言わせとけばいいんだ。あんなカメラ越しで、俺たちのことなんて何も分かっちゃいないんだから。  旭はそうやって気を強く持とうとしていた。現に、彼と旭の間の空気はそこまで悪くない。旭から話しかけてやれば、以前と全く変わらず会話をすることができる。  だが平気なフリをしていても、時間が経てば経つほど不安になる。  俺がこれだけ押してんだからさ、本心では俺が好きなら、もうちょっと応じてくれていいんじゃないか? 大体、研究所だって実験の邪魔さえしなければ恋人ごっこも構わないって言ってたのに、ここまで徹底して冷たくする必要がどこにあるんだ? 恋人に浮気だって怒られるからか? 研究員と仲良くなったら、美味い飯が食えるから? 俺が笑い者にされてるのを餌にして研究員に取り入りたい? それならやっぱり、あいつは俺のことなんて好きでもなんでもないんじゃないか?  迷えば迷うほど、彼に大々的に告白しようという勇気もなくなっていく。だが庸太郎が顔を出した日などは、アラタから見えない嫉妬の気配を感じ取れることもあり、ますます訳が分からなくなっていた。  そして今、旭の心の健康状態は身体にも影響を及ぼしていた。というのも、本来予定されていた日付はとうに過ぎているのに、旭の身体には発情期が来ていないからだ。周期が二~三日ずれるΩは珍しくないが、旭は月末に規則正しく発情期がやってきていた。それが今月になって突然五日も遅れている。予定日からこの部屋は警戒態勢に入り、出入りが厳しくなっていたが、完全に肩透かしをくらった形だ。  部屋の外では予定が狂って研究員らがバタバタしていることも知っていたが、主役である旭はのんびりベッドに俯せになって本を読みながら待つしかない。  その時、玄関の扉が閉まる大きな音と共に、ベッドがほんの僅かに振動した。旭は身を起こして、本をベッドサイドの引き出しにサッとしまう。足音が廊下を移動しているのを確認し、自分もベッドを降りて寝室を出た。  リビングへ向かうと、ちょうどアラタがソファに座ったところだった。 「何打たれたんだ?」  リビング入口の壁に凭れかかり、ソファにいる普段着姿のアラタを観察する。警戒期間が続いているため、彼はいつもの部屋で仕事をすることができない。今日は薬の再投与として一時的に外へ連れ出されていた。旭の発情周期が狂ったせいで、予定日に投与されていた薬は効力を失っているからだ。 「今月は鋤鼻器(じょびき)の受容体感度を向上させる物質がどうとかこうとか聞いていたから、おそらくそれだろう」 「へえ、ほとんど意味分かんねーけど、要はフェロモンを感知しやすくしたってこと?」 「そう。神経細胞が電位変化を起こす閾値を下げる――」  淡々と話し続けようとするアラタを、軽い咳払いで制止する。 「あー、はいはい。で、うまくいくと思うか?」  旭は視線を落とし、つま先でフローリングの床を蹴った。 「さあ? うまくいかなければ、来月は受容体の先、神経を見ることになるんだろう。かつてヒトが皆βだった頃は、この神経伝達の中枢となる副嗅球(ふくきゅうきゅう)が――」 「もういい。俺が話したいのはそんな話じゃなくて、その、もし今月うまくいかなかったら、俺は――」  不意に頭に思い浮かんだ庸太郎の姿が、旭の口を見えない手で塞いだ。 「それが、今月の発情期が遅れている理由か?」  ソファで足を組み直すアラタに、旭は「え?」という掠れた声しか出せなかった。 「旭の発情周期の乱れは、ストレスが原因だろうと研究員が話していた」 「ああ、うん、なんだろな? 今までの発情期と何も変わらないはずなのに、相手が庸太郎ってだけなのに、おかしいよな」  旭は冗談めかして言おうとしたつもりだったが、声には全く張りがなかった。旭のできそこないの笑顔を見て、アラタは僅かに目を眇める。 「旭にとって、あの男は特別?」 「違う、そうじゃない。そうじゃなくて……」  早口で否定しながら、どうして分かってくれないんだろうともどかしくなった。  庸太郎と会った日は、アラタの周りの空気の温度が明らかに下がる。アラタを怒らせたくない。これ以上彼に冷たくされたくない。だからこそ、次の発情期が怖い。 「お前は、気にならねーわけ? 俺がアイツとヤることについて」  まるで自ら「嫉妬してほしい」とアピールしているようになってしまったが、最早体裁など取り繕う気はなかった。必死な旭とは真逆に、アラタはゆったりと足を組んだまま微動だにしない。 「俺がここに来るまでに、旭は毎月誰かとそういうことをしてきた。今更だ、と旭自身が言っていた」 「俺が何を言ったかじゃなくて、お前はどう思うんだ?」 「……旭に同意だ。そんなの、何も気にすることじゃない」  彼の言葉の間。視線の動き。それらには、旭にしか分からないくらいの小さな躊躇いがあった。  こちらがこれだけ本心を見せているのに、彼はまだ心の内を曝け出してくれない。旭はほんの少し失望した。 「あっそ」  彼への気持ちを自覚してからずっと、自発的に好意を見せてきたが、彼の牙城は全く崩れる気配がない。蓄積されてきた不安や苛立ちがついに臨界点を越え、もうこの男の「本心」などを慮ってやる必要などない気がしてくる。  お前が本当に気にしないって言うんだったら、俺だってさっさと発情期なんて終わらせたいんだよ。相手が誰だろうが、俺の方は気にしてないんだからな。  旭はズカズカと寝室へ向かい、バタンと大きな音を立ててドアを閉め切った。 ***  発情期の訪れを恐れなくなった途端、旭の身体は徐々に体温を上げ始めた。寝室に逃げ込んで四時間、時刻は夕食どきになっているが、もう食事を作ることはできないだろう。  ベッドに横になり、気怠さが増していく感覚に身を任せていると、ドアが開いてアラタが姿を見せた。 「旭? 夕食は――」  ぐったりしている旭を見て、彼は何かに気付いたようだった。 「アラ、タ――」  名前を呼ぶと、彼が慎重に近付いてくる。先月の記憶は旭の記憶にしっかりと刻み込まれており、彼が旭に発情するというビジョンがまるで見えない。ベッド脇に来た彼は、予想通り冷静に旭を見下ろした。どうやら今月の実験も失敗のようだ。  そんなことを考えている間にも、旭の身体の奥からは徐々に疼きが広がっていく。羽毛に擽られるような感覚が、一点からサッと全身に広がって撫で回されたらこんな感じかもしれない。発情期初めの、このゾクゾクするような感覚だけは好きだった。その後に地獄が待っていると分かっていても。  身体の中心に熱が集まり始め、旭は前屈みになって身体を丸める。アラタの視線から、はしたない部分を隠してしまいたかった。  その時、ガタンという大きな音が玄関から届き、旭ごとベッドを揺らした。足音はすぐに寝室へ来るかと思いきや、一度リビングの方へと消える。その後少しして寝室に入ってきたのは、白衣姿の庸太郎だった。 「今月も駄目だったみたいだな」  彼はなぜか片手にダイニングの椅子を持っていたが、それを壁際に置いた。 「旭、ゴールデンウィーク中に発情してくれてよかった。これより遅れると、俺も大学が少し忙しくなるからさ」 「誰もお前のスケジュール考えて発情してるわけじゃ――」  ツカツカと歩み寄ってきた庸太郎は、アラタを押し退けて旭の身体を抱き起こした。彼は白衣のポケットから茶色い小瓶を取り出して、手早くキャップをくるくると回している。 「口、開けて」  ムスッと俯いても意味はなく、庸太郎は旭の顎を上げて簡単に口を開かせる。何が起こったか分からない内に、キャップの内側についたスポイトから何かの液体を口内に垂らされた。 「苦……何だ、これ」  ケホケホと咳をする旭を見守りながら、庸太郎はキュッと瓶の蓋を閉めた。 「いわゆる媚薬ってやつ」 「は!? そんなのなくても発情してんだろ。ただでさえ発情してるのにさらに媚薬って、馬鹿じゃねーの?」 「これにもちゃんと理由がある。今までの研究成果から得られた新しい試みなんだ」 「研究なんて……進んでんのかよ。俺には何も言わないくせに」  庸太郎は旭の頬を確かめるようにゆっくり撫でた。 「旭の胎内も卵子もガードが固いんだ。知り合いの俺と媚薬の力で、旭が気を許してくれたらって作戦」 「……あほらし」  軽口を叩いているが、そろそろ旭の身体は本格的な発情状態に入ろうとしていた。肌に擦れる布がもどかしくなり、早く全てを脱ぎ捨ててしまいたくなる。そわそわと視線を彷徨わせると、部屋を出て行こうとするアラタを視界の隅に捉えた。 「一条さん。あなたはそこに座ってください」  アラタを引き止めた庸太郎は、先ほど持ってきた壁際の椅子を指差している。 「なんで、そんな――」  旭だけでなくアラタも「なぜ」と目だけで訴えていた。 「彼に特別な情がないと言うなら、問題ないですよね?」  庸太郎の声は穏やかだが、どこかアラタを試すような嫌味なトーンだった。 「嫌、嫌だ。アラタはあっちで待ってろ――」 「悪いけど、旭に決定権はないんだ」  庸太郎がそう言うのと、アラタが指定された椅子に座ったのはほぼ同時だった。

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