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20.2 homecoming

 旭の体調が十分安定し、元の部屋に戻れるようになるには、結局二週間かかった。  病室を出てすぐの場所は普段来る機会のないエリアだったため、ただの廊下もやけに新鮮に感じられた。崎原だけでなく主任である林までもが旭に付き添って、二週間ぶりの「我が家」へと連れて行かれる。見慣れた廊下の風景が見え始めると、やはり手足が緊張で固くなった。  あの部屋の主は俺だ。何で俺が緊張しなきゃならない? あいつに会ったら一発ぶん殴ってやればいいんだ。嘘つき野郎。研究所の犬。  罵り言葉の予行演習をしながら白いドアを一つ開ける。そしてもう一つ、黒いドア。  崎原のあとに続いて玄関に入った時、旭はそこにいる人物を前にして固まった。 「おかえり」  低音で抑揚のない、しかしどこか穏やかな声色の挨拶。てっきりリビングのソファででも寛いでいるだろうと思っていたアラタは、なぜかここまで出迎えに来ていた。 「一条さんには、また以前のように君と親しく振る舞ってほしいとお願いしてある。またストレスで体調を崩されたらたまらないからな」  林はつまらなさそうにフンと鼻を鳴らす。治療室での丁重な扱いからも予測できていたが、研究所は旭を精神的にいたぶるよりも、旭の体調管理と実験の円滑な進行を優先したのだろう。  崎原が「また何かあったらすぐに言うように」と伝え、付き添っていた全員が出て行く。  まだよく状況が飲み込めないながらも、靴を脱いで廊下に上がると、アラタはすぐに旭の身体を両腕で抱き締めてきた。 「この感触、久しぶりだ」  彼はまるで母親に久しぶりに会えた幼子のように、安堵と喜びを振りまいている。  瞬間的に旭も再会を喜びそうになってから、こんなやり取りは紛い物だという自戒が頬を打って目を覚まさせる。  そうだ。こいつは全部、研究所の言いなりで動いてるだけなんだ。  彼と密着したところにあった温もりは、突然吹き込んだ隙間風によって急速に冷めていくようだった。 「よそよそしくなったりベタベタひっついたり、あいつらの一言でお前はロボットみたいにモードチェンジするんだな。あいつらにリモコンか何かで操縦されてんのかっつーの」  彼の身体を押し退けてズカズカとリビングに向かう。久しぶりに見たそこは、散らかっているわけでも、物が増えたり減ったりしているわけでもなく、旭が出て行った時のまま時間が止まっていたかのようだった。  彼は旭がいない間どんな生活をしていたのだろうか。キッチンへ足を向けると、コンロの上に鍋が一つ出ているのが見えた。腐った残り物かと思いつつ蓋を開けてみると、中にはまだ作って間もないと思われるお粥が入っている。 「旭が戻ってくると聞いたから作っておいた」  無言でノソノソと後をついてきていたアラタが、得意気に口を挟んだ。 「お粥って、俺もう病人じゃねーし」  照れ隠しに鍋の蓋を乱暴に戻してから、フルフルと首を振った。  騙されるな。これも全部、優しいフリだ。  旭は彼を振り切って寝室に逃げ込む。ベッドサイドのチェストを確認しようと近付いたその時、背後でそっとドアが開く音がした。振り向けば思った通り、ドアから半分顔を覗かせたアラタがいた。  二ヶ月前、出会ったばかりの頃と全く同じ。まるで時間が戻ったかのようだ。  しかしあの時とはもう違う。あの頃のように何の疑いもなく「変態」「ストーカー」と怒ることはできない。  研究所に言われたらパッタリとやめてしまう程度の執着心なのを知っているから。  彼が多くの隠し事をしているのを知っているから。 「旭、ストレスが溜まっているなら、絵を描いて発散するのはどうだろう」  彼はベッド横の引き出しを示して提案した。確かに、絵を描くことで言葉にできないモヤモヤを昇華することができる。しかし彼の言う通りにするのも何となく癪で、「そうだな」とだけ答えた。 ***  バスルームの水音を聞きながら、寝室でベッドに座った旭はふうと一息ついた。  アラタはあれから半日ずっと旭に構い倒した。ついこの前まであれだけ冷たく接していたのが嘘のように。旭に夕飯のお粥を食べさせ、リビングのソファで並んでテレビを見る。その間もさり気なく旭の腰に手を回し、挙げ句の果てには堂々と一緒に風呂に入ろうとまで言い出した。  さすがにそれをしてしまうと、バスルームでなし崩し的に彼に身体を許すことになりそうで、無理矢理彼だけを先に風呂へ行かせたところだ。  頭では駄目だと否定しながらも、なんだかんだで彼からの接触に心が跳ねてしまう。お陰でたった半日なのにやけに疲れてしまった。  これってつまり、俺はまだあいつのことが好きってことだよな。俺よりも研究所の連中の言うことに従うような奴でも。母親が憎い弁護士でも。あいつに恋人がいても。なんであいつのこと嫌いになれないんだろう。  その答えをうまく言葉にすることはできない。しかし、彼からの深い愛情が確かにそこにあって、深く潜りすぎていて見えないだけだと感じることがたまにあるのだ。彼の視線、表情の変化、触れてくる手の力加減、声色。監視カメラ越しでは分からないであろう細かいことの積み重ねが、旭に「愛されている」という錯覚を与えていた。  彼はまだ風呂から出てくる気配がない。旭はこの隙にとサイドチェストからスケッチブックを取り出した。  最後に描いたのはどんな絵だったか――そんなことをぼんやり考えながらパラパラとページをめくる。書き込みのある最後のページを開いた瞬間、旭の手が、全身が止まった。  文字だ。  小さくて汚い字が紙面一杯に書かれている。遠目に見たら黒で描かれた前衛芸術のようだ。  誰が書いたのか、考えられるのは一人しかいない。旭のいない二週間、この部屋にいた人物。  旭は何とか視線を定めて一番上から目を通した。 『旭へ  研究員らは既に私に対する警戒を解いたようだ。あれだけ徹底的に旭に冷たくした甲斐があった。監視カメラも今は布に覆われて止まっている』  手が震え、めくりかけたページの隅に皺が寄る。 『君がこれを読む頃には、また監視カメラが動いているだろう。スケッチブックをずっと見ているだけでは怪しまれるから、読んだところから君の絵で塗り潰してほしい』  脇にある色鉛筆のケースを慌てて開き、短くなった黒を指に握った。 『私的な手紙というものを書いたことがないから、何から書けばいいのか分からない。報告書や契約書なら馴染みがあるが、果たしてそれらと手紙にはどのような違いがあるのだろうか。親しい間柄の場合、一人称は私ではなく俺とした方がいいのだろうか。さすがに甲、乙ではおかしいだろうことは分かる。とにかく、分かりにくいところやおかしなところがあったら申し訳ない。  君はおそらく、俺が今ここにいる理由について次のように理解していると思われる。  ある日検査でαであることが判明し、発情しない特異体質のために研究協力を要請された。たまたま実験での同居相手が篠原旭という、過去に絵画展で知った名前の人物だった。ここへの入所時に研究員らから君の生い立ちについて知識を得て、新薬開発の実験協力としてここに滞在している。  しかし真実は以下の通りである』  何だ、これ。俺は今、何を読んでるんだ?  焦りと困惑で、紙の上の方を彷徨わせていた黒い線が不規則に乱れる。  その時、寝室のドアがガチャリと開き、まだ髪が濡れた状態のアラタが入ってきた。彼は旭が膝に抱えているスケッチブックをチラリと見てから、無言のまま旭の隣に座った。 「旭の描く絵を見るのは久しぶりだ。続けて」  彼は何食わぬ顔で旭に先を促した。  この先にやっと、彼の真実がある。旭は逸る心を落ち着かせながら、長い、長い手紙の続きを読み始めた。

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