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20.3 君への手紙

『俺がまだ高校生だった頃、親に連れて行かれた絵画展で君の絵に出会った。その後、画商との話で篠原旭という人物について教えてもらい、君の親のことも聞き出していた。君の親の個展などにも顔を出し、連れ添いで来ていた君を遠くから見たり、時には会話をしたりもした。  そんなある日、あのΩ大量殺人事件が起きた。母がその犯人の弁護を受けることになり、集められた遺族に関する情報の中で、君が養護施設で生活していることを知った。  当時法科大学院の学生だった俺は、ボランティアの家庭教師としてそこへ出向くことに決めた。休憩時間に子供たちに連れられて旭のいる診察室へと入った時、君は初めての発情期の真っ只中だった。人を呼んで、君を救急車に乗せた後、俺は君の伯父さんと知り合って話をした。俺はたまに彼に連絡を取り、病院の君の様子について情報をもらっていた。  しかし君がこの研究所に入ったことを知らされてからは、まったく何も分からなくなってしまった。施設の子供たちと一緒に会いに行こうとしても、面会はできないの一点張りだ。  長らく不審に思っていたところで、母からとある話を聞かされた。今は詳細を省くが、母はとある案件で公安と関わりを持っていた。その公安から、白峰製薬の研究所で人が不当に拘束されている疑惑が起こっている、という話を聞いていたそうだ。  俺はその後個別にその公安の男と連絡を取って話を聞いた。疑惑の大元は、旭の伯父さんが持ちかけていた相談だそうだ。君の伯父さんは何食わぬ顔で君と面会をしているが、実は君の置かれている状態に疑問を持っている。  公安が何とか白峰製薬の関係者をスパイにできないかと動いていた時に、俺はちょうどある事故に巻き込まれて負傷した。その治療中に幸か不幸かおかしな体質のαだということが分かり、俺自ら白峰製薬の研究所へ潜入できることになったというわけだ。  白峰製薬からの研究協力のオファーを渋るふりをして半年以上焦らしながら、その間に公安からはスパイとしての立ち回りについて相談した。  散々渋った末の了承ということもあり、研究所での俺の待遇は上々だった。仕事と称して別室に行き、恋人の振りをした女性と会うことさえできれば、外との情報交換ができる。ネットを通じた通信は全て監視されているが、さすがに恋人に受け渡す弁当箱の中身までは確実にチェックされない。小さな物や紙切れ程度なら外部とのやり取りが可能だった。彼らはαというだけで俺を信用しすぎた。  最も避けなければならない事態は、俺の体質の謎が解明されて実験が終了してしまうことだった。白峰製薬から研究のオファーが来てすぐ、白峰製薬のライバルである黒野製薬の提携病院で密かに詳細な検査を受けている。αに関する知識に長けた彼らでも俺の体質を暴くことはできなかったが、開発中だというα向けの抑制剤を提供してもらえるよう協力を仰いだ。  旭の発情期がくる少し前に、例の弁当箱を通して受け取った薬を飲んでから、この部屋へ戻ってくる。研究員は実験内容について事前に親切に教えてくれるため、それに応じて飲む薬を変えればいい。受容体の感度を上げる実験をすると言われたら、神経側を鈍らせる薬を飲む。逆に神経の伝達を助ける実験をすると言われた時は、受容体を鈍らせる薬を飲む。薬の飲み合わせによる危険性だけは残るが、至ってシンプルな打ち消し合いだった。  ここで人が監禁されているという証拠を押さえるために、実は何度か小型のカメラを回していたこともあった。どこにそのカメラがあるか言ってしまうと、旭の視線が不自然になるかもしれないから、今は黙っておくことにする。とにかく、今このカメラの中身を公安に提出すれば、君の軟禁に関する容疑で、彼らはすぐにこの研究所へ踏み込むことができるだろう。  しかし今はまだそれができない。その理由が、先ほど詳細を省いた母の追っていた別件だ。こちらの件に関しては、まだ君に詳細を話すことができない。話してしまったが最後、カメラと同じく君はおそらく顔や態度に出してしまうだろう。とにかくこの件に関して何らかの証拠を掴むことさえできれば、全てを終えて君と外に出ることができる。  俺は今まで、君にたくさんの嘘や隠し事をしてきたが、君をここから助けるための最善の行動を取っているつもりだ。外部からの指示や恋人役の女性から、君への態度について俺は散々怒られてきた。そのため、時に君に対してわざと冷たく振る舞わなければならないことが心苦しい。研究員を騙すだけでなく、君にも勘違いされて嫌われてしまったかもしれない。しかし君をここから自由にできるのであれば、たとえ俺が嫌われても、たとえ君が外に出てから俺以外の誰かと幸せになっても、それはそれで構わないと思っている。  いや、こうして監視カメラのない隙を使ってこのような言い訳がましい文章を書いている時点で、やはり君に嫌われたくないという未練はあるのだろう。  今日研究員がここに来て、君が戻り次第以前のように親しく接してやってほしいと頼まれた。君が体調を崩しているのは恋煩いのせいだからだと。  そうであればどれだけいいかと思うが、実際君にストレスを与えている原因は、俺の母親に関する事実だろう。君があの事件をどれだけトラウマに思っているかは知っている。憎くてたまらない弁護士の息子がすぐそばにいるとなれば、平静でいられないのは当たり前のことだ。  また君に触れられる生活が戻ってくることは、俺にとっては喜ばしいことだが、君にとっては苦痛以外の何物でもないかもしれない。俺は君を外に出すために研究員に従って行動するが、君に負担を与える可能性については、今ここで先に謝罪しておく』  旭は意味もなく色鉛筆をざかざかと動かしながら呆然としていた。今まで見知ってきた世界が、突然まっさらに吹き飛ばされて更地になってしまったような気がした。  隣にいるこの男は、初めから旭を助けるためにここへ入り込んできたのだ。  なぜこんな場所で共同生活を望んだのか。なぜコロコロ態度を変えるのか。なぜ、たまに彼から愛情の片鱗を感じることがあったのか。  今まで感じていた全てにやっと答えが出た。  隣からソワソワとした気配が伝わってきて、何か言わなければならないのだと気付く。旭は少しだけ迷ってから、下の方の空いているスペースに伸び伸びとした大きな字を書いた。 『ありがとう。何で俺のためにそこまでしてくれるのか分からないけど』  それが旭の本心だった。彼からの執着と愛は予想していたより遥かに大きくて、大きすぎて見えないくらいで、嬉しい反面、自分にそこまでの価値があるとは思えなかった。  アラタは旭の手から優しく黒の鉛筆をもぎ取ると、この手紙の筆跡と同じ、小さくてミミズが這ったような読みにくい文字を連ねた。 『旭は俺の神様だから』  首を傾げても、アラタはそれ以上説明してくれない。 「俺は……お前が……好き、なんだけど?」  ぼそっと言うと、アラタが隣からぎゅうっと抱き付いてくる。言葉はなくても彼の気持ちはしっかり分かっていた。 「これじゃ描けないだろ」と彼を優しく引き剥がし、本格的にこの絵に取りかかることにする。下地にある黒を活かして、いつか見た夜空をスケッチブックに写し取ることにした。  アラタの片手に腰を抱かれて、ふとあの温かな両親の手を思い出した。いつの日か、流星群を見に両親と夜の丘へ出かけた記憶。 「旭も何か願い事してみたら?」 「流れ星の願掛けなんて迷信だろ。大体、何を願うって言うんだよ」  涙のようにポロリポロリと流れる光の線を見上げながら、旭は奏多の言葉に適当に返した。 「旭が幸せになれますように」  奏多の言葉に合わせたかのように、真っ黒な空を一筋の大きな光が流れていった。  旭は自然とあの日の記憶の写真を絵に落とし込み始めた。  あの日の空をもう一度、こいつと見てみたい。何年かかっても構わない。  旭からすれば出会ってたったの二ヶ月。だが、その前から何年も続いていた彼の気持ちを目の当たりにすれば、自分もはるか昔から彼に惹かれていたような気がするから不思議だ。  運命の番。  あのお伽話のような言葉を不意に思い出す。彼と目が合った瞬間の心地よい微電流のようなものは、やはりその証だったのだろうか。  しかし今更そんなことはどうでも良かった。旭がこの男を愛すると決めたのは、運命の相手だからではない。この人が運命の人でなくても、αでなくても、どんな親を持っていようとも、どんな職業でも、この手紙を読んだらきっと好きになっていた。  あの手紙の文字はもう夜空の絵の下にほとんど埋もれている。しかし旭の脳裏には、塗り潰す前の状態の手紙がはっきりと焼き付いて離れない。この映像は死ぬまで、いや、死んだ後までもずっと残り続けるような気がするほど深く、旭の中に刻み込まれている。忌まわしいと思っていたこの記憶能力に、旭は生まれて初めて感謝した。

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