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21.1 それからの日々
半年後。
外の世界は十月下旬となり、空は高く空気は肌寒くなってきていたが、研究所の地下室には相変わらず季節など無いに等しかった。
「なー、俺そろそろ鍋やりたい」
旭はソファに座ってカタログを眺めるアラタに近付くと、背凭れ越しに彼の手元を覗き込んだ。
「鍋?」
「もうすぐ世間は冬だってよ」
後ろからカタログのページを勝手にめくりながらそう言うと、アラタは小さく首を傾げた。
「ここは一年中同じ温度だ」
「ったく、お前には気分ってもんが分かんねーのかよ。もういーよ」
彼の頭を小突いてその場を離れようとすると、アラタの手が伸びてきて旭の腕を掴んだ。
「鍋の材料を注文しておけばいいのか?」
旭は拗ねたフリをして顔を背けながらも、ボソボソと口を開いた。
「材料だけじゃなくて、土鍋とかカセットコンロとか一式全部」
「ないのか?」
「だって、一人で鍋とか虚しいじゃん。ここにきて初鍋なんだよ」
旭の腕を握るアラタの指にピクリと力が入った。
「……なんというか、家族みたいだな」
彼は何気なく言ったつもりだったのだろうが、旭ははたと固まった。
家族って何だ? ……夫婦?
「旭?」
名前を呼ばれて我に帰り、もげそうになるくらい勢いよく首を振った。
「何でもない!」
赤くなった顔を隠すために、慌てて彼の拘束から逃れる。とは言っても、この狭い部屋の中では隠れる場所も限られてくる。旭はパタパタと廊下に出ると、トイレの中に閉じこもった。
彼の真意を知ってから今まで、二人の関係は蜜月とも言っていいほど甘いものだった。監視カメラで全てを覗かれていることと、発情期の度に庸太郎とセックスをしなければならないことを除けば、同棲している恋人同士の空気そのものだ。
これを見ている研究員らは、旭のことを「お情けでαに恋人のフリをしてもらって有頂天になっている惨めなΩ」だと思っているだろう。現に、研究員らは今でもアラタに信頼を寄せており、たまに彼を誘って食事に出かけている。情報を引き出すためにアラタに利用されているとも知らずに。
旭の立て籠もったトイレのドアは、すぐにドンドンとノックされる。あの男は相変わらずのストーカーだった。
アラタはまだしょっちゅう仕事と称して出かけていくが、旭にはもう何の不安もなかった。恋人だと思っていた女性は単なる連絡係であり、あの弁当も薬やメモの受け渡し手段に過ぎないのだ。アラタがいつか旭の弁当を断ったのも、苦渋の決断だったのだろう。
玄関でアラタのネクタイを直してやって、「いってきます」という彼に、小さく「いってらっしゃい」と返す。彼の挨拶に応えてやるのは、今でもまだ少し気恥ずかしかった。
彼が出かけて一人になると、旭は前よりもよく絵を描くようになった。今は秋。かつて学校の帰り道に見たドングリのたくさん落ちる場所を思い出しながら、秋の風景を描き出す。
旭の絵の技術は昔から何ら衰えることはないが、その気持ちには大きな違いがあった。かつては、絵の中に閉じ込めた未来の自分の後ろ姿に、見通しの見えない将来への不安を暗示していた。しかし今旭が絵を描く時に抱いているのは、この研究所を出られた後の未来に対する期待感だ。
これまでは、もう二度とここから出られないだろうと思っていた。親も友人もなく、ここで虐げられて孤独に死んでいく可能性が一番高いだろうと。それが今は、アラタがいつかここから自分を連れ出してくれるのだと信じて疑わなくなっている。
現実をそのまま写真のように描いているだけのつもりだったのに、気持ちが変わる前と後では、自分でも分かるほど絵の雰囲気が変わったと思う。
『写真と絵を比べることなんてできないよ。ここには確かに旭の視点と気持ちが入ってる』
あの時晶が言ってくれた言葉は本当だった。
昼過ぎにドアが開く音がすれば、旭は絵を描くのを止め、「おかえり」を言うために玄関へと向かう。
しかし今日は清々しい気持ちでそれを言うことができなかった。待ちわびた同居人の後ろに、邪魔者の姿があったからだ。
「旭、今日は検査に行こう。ビタミン剤の点滴だって」
アラタを押し退けるように玄関から上がってきた庸太郎は、旭の腰に片手をまわすと、反対の手で旭の腹部をさらりと撫でた。
「触るな」
肘鉄を食らわせて彼の腕から逃れる。
「早く俺たちの子供ができないかなって思っただけなのに」
「もうお前じゃ無理無理! 早く種馬交換しろっての」
こうやって邪険に扱っても、庸太郎は決して諦めてはくれなかった。他の研究員と同じように、旭とアラタが両想いなのを知らないのであれば仕方ない。しかし旭はなぜかそうは思えなかった。
庸太郎は俺とアラタの関係が本物だって気付いてるんじゃないか?
そう思う理由は漠然としている。ただ少し前から、庸太郎はどこか諦観したような空気を醸し出すようになった気がするのだ。幼馴染を他の男に取られたという、悲しみのようなものをヒシヒシと感じていた。
しかしそんな庸太郎の嫉妬心とは別に、アラタもまた庸太郎が来た日は少し様子がおかしくなった。
ソファに並んで座っていても、密着するどころか旭の膝の上にゴロリと頭を乗せてウトウトしたり、カメラの前でわざとらしく旭に抱き付いて離れなかったり、何とも分かりやすく甘えるようになる。
旭が寝ると言えばピッタリくっついて来て、ベッドの中でいつも通り旭をぎゅうっと抱き締めてくる。しかし大抵こういう日はそこで留まらない。
アラタは旭の首筋に鼻をすり寄せてから、そろりそろりとぎこちなく旭の身体に手を這わせた。
「何?」
そう聞いておきながらも、本当は彼がしたいことは何となく分かっている。彼は一生懸命布団の中で旭のシャツをめくり上げようと試み、控え目に下半身を押し付けてくる。童貞の下手くそなセックスの誘い方に、旭の方がムズムズするほど恥ずかしくなった。
「だから、そういうのはまだ駄目だって」
旭の拒絶に対し、アラタはいつも「どうして?」と言わんばかりに拗ねる。
「あいつとは毎月してるのに不平等だ」
ボソッと呟かれたその言葉に、旭は彼の頭を優しく撫でた。
「お前の方が好きだって言ってるだろ。でも、だからこそまだ駄目なんだ。こんな恥ずかしいこと言わせんなよ」
旭から明確に「好き」という言葉をかけられると、彼は現金にも大人しくなる。勝ち誇った目でカメラを見るアラタに、旭はやれやれと溜息をつきそうになった。
なんで分かってくれないんだ? 本当に好きだからこそ、お前との初めてのセックスを下衆な連中への見世物になんかしたくないんだ。
そんな警戒心のせいで、旭は結局彼とキスすらもできていなかった。
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