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21.2 時間切れ

「……えっ?」  乾いたリビングの室内に、旭の驚きの声はやけに大きく響いた。 「だから、今月末の発情期で一旦一条さんの方の実験は終了だと言っている。日本語くらい一度で理解しろ」  主任の林がわざわざ訪れてそう言い出したのは、十一月直前のことだった。 「まだ何も分かっていないと思いますが」  旭の隣に座るアラタが問いかけると、林は丁寧に頷いた。 「そうですが、白峰製薬の経営的な問題でこちらも予算を減らされているのです。αについては性急な実験はせず、もう少しこちらで基礎研究を進めようということになりましたので」  最早決定事項のように話が進められ、旭は慌てて口を挟んだ。 「いや、でも、もう少しで何か分かるかもしれないのに」 「受容器官、神経経路上の器官、そして脳に対してこれまでいくつかの変化を与えてきたが、どこも可能性すら見えない。このまま続けても手応えがなさそうだというのが現状の認識だ」  アラタは黒野製薬というところの薬を使って、ここの実験で投与される物質の効果を打ち消していると聞いていた。しかしその完璧な防御が裏目に出たようだ。  俯く旭に向かって、林はフンと鼻を鳴らした。 「まあ君は寂しくなるのかもしれないが、いつまでも彼を恋人ごっこで拘束することはできない。無料のホストクラブでもあるまいしな」  どんなに悔しくても、ここは言い返してはならない。旭が黙ったのを見て嗜虐心が満たされたのか、林は次にアラタへと向き直った。 「それと一条さん、予算の都合上あそこの共同研究室も締めることになりましたので、お仕事の方は最後半月だけお休みにしてください」 「すみません、それはどうしても困ります」  アラタの声に焦りが混ざる。 「メールならば所内で使えるパソコンを探しますので、手短に済ませていただくことはできそうですが」 「そう、ですか」  アラタは納得していないという空気だったが、変に要求する前に引き下がった。 「少しずつでいいので荷造りをお願いしますよ。念のため、ここから外に持ち出す物はチェックをさせていただきますが」  林は無慈悲にそう言い残し、嵐のように去っていった。旭とアラタの共同生活は、ついにあと半月ということになる。  お互いに沈んだ空気のまま、夜ベッドの上でスケッチブックを介して言葉を交わす。 『お前が外に出たら、カメラの映像を公安に出して、捜査が入れば俺も後から外に出られるんだよな?』  何も悲しむ必要はないのだと言い聞かせて尋ねると、アラタは新しい青の色鉛筆で文字を書き足した。 『外に出す時の検査でバレなければ。本当は、全ての証拠が揃ったら外から踏み込んでもらう予定だった』 『持ち込みの時にも検査通過したんだろ?』 『もし万が一見つかったら、もう君を助け出すために戻ることができなくなる。外と連絡を取って対応を相談したいが、もう恋人役を呼べる機会もなさそうだ』 『心配性』  旭はそこでアラタの青い鉛筆を奪うと、二人の会話の上からグシャグシャッと色を付ける。青い空と海、もうすぐ彼と外の景色を見られるのだと信じ、不安を塗り潰した。 ***  その数日後、アラタは最後の実験に向けて検査へと連れ出された。一人部屋に取り残された旭の元に来客があったのは、午後の三時過ぎだった。 「あれ、崎原先生?」  リビングのソファにだらしなく寝転がっていた旭は、崎原の姿に姿勢を正した。よく見ると、彼の後ろにはまた林が付き添っている。 「今月の診察はこの部屋で行ってもらうことにした」 「色々経営的な問題があるみたいでね、僕も地上と地下で二部屋使えているのは贅沢なんだそうだ」  確かに彼の診察室は殺風景で、あまり使われている様子がなかった。予算不足で真っ先に切られそうな無駄な部分だ。しかしそれなら旭を地上の診察室に連れて行けばいいのに、研究所の外部の目には徹底的に旭を見せない方針らしい。 「この部屋、カメラ回ってんだろ。こんなところで崎原先生と話なんか――」 「一時的に止める。それでいいだろう」  旭がいるのにこの部屋のカメラを止めるというのは、今までにない特殊な事態だ。これ以上何を言っても無駄だと判断し、旭は舌打ちで承諾を示した。  林が部屋を出て行ってカメラが切れたことを放送が告げると、崎原はソファにいる旭の正面、テーブルを挟んで向かい側の床に腰を下ろした。座布団でも出してやりたいのだが、あいにくこの部屋にそんなものはない。 「どうやら秋の決算で相当苦しい状況になったみたいで、なんだかバタバタしてるよ。追い立てるように荷造りさせられて、このカルテを見つけるのも一苦労……ああ、ペンを忘れた」  崎原は持っていた黒い下敷きボードを見てあたふたしている。旭はテーブル上のペン立てを彼の方に寄せてやった。 「どうぞ」  礼を言いながら一つペンを選んだ崎原は、サラサラと何かを書きながらさっそく質問してきた。 「篠原君の方はどう? このバタバタの煽りを受けて」  どうせ知っているくせに、と思いつつ、旭は自らの口で説明する。 「先生も聞いてると思うけど、あいつ……アラタの実験も撤収だってさ。それ以外は特に不景気な話は聞いてないけど」 「やはり白峰製薬は君を使った実験で一発逆転を狙っているんだろうねえ」 「はっ、たとえこいつらが画期的な薬を開発できたとして、Ωを忌み嫌ってる連中が作った薬をΩが何も知らずに使うなんて、この世界は心底腐り切ってるな」  旭は乱暴に足を組んだ。 「まあそれは置いておくとして、一条さんがいなくなることで君の心の健康に害があるかどうか。それを僕は診にきたんだよ」  そんなことだろうとは思っていたが、いざとなると何と言えばいいか躊躇った。たとえ崎原相手であっても、この軟禁は全て証拠として確保されている、アラタが出て行ってすぐにこの研究所には捜査の手が伸びるだろう、などとは言えない。 「えと、それは、まあ……前みたいに治療室行きにはならないだろうけど」  視線を泳がせる旭に、崎原は目を丸くした。 「へえ。むしろこの何ヶ月か彼と過ごす時間が長かったせいで、余計離れづらくなってるのかと心配してたのに」 「いや、なんていうか、もうそろそろ飽きてきたかなー、なんて」  アラタがこの嘘を聞いて拗ねる姿を想像したら、ついつい笑顔になってしまう。そんな旭を、崎原はじいっと見つめた。 「僕はむしろ、君たちが本気で恋人同士になったものとばかり思っていたよ」  旭の心臓がドキリと脈打つ。この人はやはり人の心を読むのがうまい。  そのあとは何とか崎原を誤魔化すことに精一杯で、どんな会話をしたかもあまり覚えていなかった。  崎原が出て行ってすぐ、入れ替わるようにしてアラタが戻ってくる。 「外であの崎原という医師とすれ違った」 「うん、地下の診察室がなくなったから、今日はこの部屋で話した」  そんな話をしながらリビングへ戻ると、アラタは先ほど旭と崎原が会話していた辺りをジッと睨んだ。 「アラタ? どうかした?」 「いや」  彼は否定したが、眉間には深い皺が刻まれている。 「うん、機嫌悪いな」  旭がそう結論付けても、アラタは何も言わずに寝室へと着替えに行った。しかし旭には彼が機嫌を損ねる理由が全く思い当たらない。まさか崎原との嘘の会話を聞かれていたわけでもあるまい。どうせまた些細な嫉妬だろうと、あまり気にしないことにした。

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