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21.3 番の契約

 どんなに足掻いても時間だけは進んでいく。旭の発情期――最後の実験が始まるまであと三日に迫った夕方六時。  今夜の夕飯は何にしようかと冷蔵庫の中を覗いていると、廊下からアラタの呼ぶ声が聞こえてきた。 「旭、風呂の掃除をしてるんだがちょっと来てほしい」 「何だ? ゴキブリでもいた? まさかまた洗剤使いすぎて泡まみれになってたりしないよな?」  その時の旭には、この先何があるのか全く分かっていなかった。  洗面所に入ると、奥のバスルームからもくもくと湯気が流れてきている。どうせまた不器用なことをして助けを呼んでいるのかと思ったが、風呂場の奥の壁を見て旭は絶句した。  穴だ。  今まで鏡が取り付けられていた裏の壁に大きな穴が空いている。 「旭の想像通り、洗剤の量を間違えて大変なことになった。手伝ってほしい」  アラタはでまかせを言いながら人差し指を唇に当て、無言で「静かに」と旭の言葉を堰き止めた。天井の隅に設えられた監視カメラは、いつも通り曇っている。  最初に出会った時から彼の変人っぷりには驚かされてきたが、これは過去最高のサプライズだ。  アラタはシャワーを出しっ放しにしたまま穴の先へと大きな図体を押し込み、向こうから旭に手を伸ばした。導かれるままに穴の外へ出てみると、そこは壁裏の狭い空間になっていた。左手は少し行った場所で柱がせり出しているのか、通り抜けるのは難しそうだが、右手は人がギリギリ二人並んで通れるくらいの幅の空間が壁沿いに続いている。 「何だよ、この穴」 「開けた」 「いつ? どうやって?」  問いかける旭の手を掴み、アラタは右手の狭い通路を進んでいく。 「万が一に備えて、旭が体調を崩してカメラが止まっていた時に作業した。まさかその万が一が来るとは思っていなかったが」 「作業したってどうやって? スプーンか?」 「それは脱獄映画の話だろう。あの部屋には旭の使った日曜大工の工具がある。ハンマー、たがね、その他多数。スプーンよりずっと簡単だ」  確かに、棚を自作するための工具セットを購入した記憶がある。壊すにはそれなりの音が出るだろうが、カメラが止まっていればさほど気にすることもなかっただろう。 「でもカメラが止まってたのって何ヶ月も前だよな。この壁裏って誰も入って来ないのか?」 「ここの図面は来る前に頭に入れておいた。少し進めばメンテナンス用の通路になるはずだが、普通は誰も来ない」  実際この幅の狭さは、正式な通路にしてはありえない。また、今進んでいるのと反対方向は通り抜けもできなさそうだったので、実質ここは行き止まりということになる。  しかしやはり解せないことが多く、旭はピタリと立ち止まり、前を歩くアラタを引き止めた。 「でも何でこんな強引な脱獄じみたことする必要があるんだ? お前が外に出たら、俺も後から出られるはずだろ? カメラが持ち出し検査に引っかかるのがそんなに心配か?」  アラタは前を向いたまま、何かを躊躇っている。 「……カメラはない」 「え? あれって嘘だったのか?」 「違う。この前まではあった。旭、リビングのテーブルに立ててあったペンはどうした?」  どうして急にそんな話になるのか分からなかったが、旭は頭の中の記憶映像を検索した。 「え、ああ、この前崎原先生がペンを忘れたって言ってたから貸して……あ、間違えて持って帰ってるな。出て行く時に手に持ってる」 「あれがカメラだった」  繋がれた手がぎゅっと悔しそうに握られる。 「嘘、だろ? じゃあ今って――」 「証拠がなくなった以上、振り出しもいいところだ。俺だけ出られても、旭は閉じ込められたまま、外に出してやる手立てがない」  まさかあの無造作に置かれていたペンが重要な物だとは知らなかった。しかし崎原にあれを貸してしまった罪悪感は拭えない。  アラタに引っ張られて再び歩き出し、少し広めのメンテナンス用通路に出た。足元にはぽつぽつと明かりが灯っている。 「どこに行くんだ?」 「電気を落とす」  アラタは目的地に向かって迷うことなく早足で進んで行く。 「上は病院だぞ。なんだっけ? 白峰十字病院? 医療機械で生かされてる人を殺す気か?」 「上の病院と下の研究所は電源系統が別だ。たとえ同じ系統だったとしても、病院なら緊急の発電設備が作動するだろう」  あるドアの前で立ち止まったアラタは、中を確認して素早く入り込む。中は四角い機械がたくさん並んでいて、旭にはさっぱり分からない。  入り口で待っていると、アラタはその中のいくつかを弄って戻ってきた。 「すぐに誰かここに来る」  アラタに連れられて通路に戻ると、足元に点灯していた灯りが全て消えていた。 「どこに逃げるんだ?」 「戻る」 「はあ? 戻ってどうすんだよ」  旭の問いに答えはない。ただ彼は半分走るようにして今来た道を引き返した。  通路の正面からどこかのドアがバタンと閉まる音がして、暗闇の中、誰かがこちらに向かっている気配がした。アラタは先ほど出てきた狭い隙間の横道に戻ると、浴室の壁穴付近まで進んだ。  しかし室内に戻るでもなく、ザーザーとシャワーの音が聞こえる場所を少し通り過ぎていく。  その先はついさっき確認した通り、基礎部分となる柱がせり出しているせいで、普通に人が通れる幅ではない。身体を横にすれば、背が低くて細身の人間なら通れるかもしれないが。  旭が自分の身体なら通れそうだと目測したのと、アラタが正面を指差したのはほぼ同時だった。 「ここを通る。向こうにも別のメンテナンス用通路がある。そこで右へ行くと突き当たりにドアがある。その先は外――建物の脇に掘られたドライエリアだ。どこかから上へ上がれる。皆電力室に注目が集まっている今なら、向こうの通路は誰も通らないだろう」  背後からは電力室に向かう何人かの足音が聞こえてくる。こちらの行き止まりには誰も来ないだろうが、彼と繋がった掌はじっとりと汗ばんだ。 「お前の図体でここ通れんのか?」  うまく通れずにもたもたしていたら、せっかく囮にした電力室も復帰してしまうかもしれない。不安を示す旭に、アラタは静かに首を振った。 「え……?」 「俺は通れない。旭だけ通る」  彼はそこで強引に後ろにいた旭の身体を前へと押し出す。狭いスペースに押し込まれそうになって、旭は慌てて抵抗した。 「お前はどうすんだよ」 「部屋に戻って穴をまた隠す。誰かが来たら、旭は停電で開錠されたドアから逃げたと伝える。俺はそのまま実験終了で解放される」  アラタは流れるようにそう言うが、旭はゆっくりと首を振った。 「そんなの絶対怪しいだろ。すんなり行くとは思えない。俺の脱走に荷担したってバレたら、お前、どうなると思って――」 「これ以外に方法がない」  早く行けと促す力を、旭は懸命に押し返した。 「崎原先生だろ? 言えばペンくらいすぐ返してもらえるって」 「俺の実験終了までに彼と会う機会はもうない。それにたかがペン一本の返却を求めれば、何かあるのかと厳しく検査されるだろうな。確実にカメラの存在がバレる。彼が真実を話してもいい相手かどうか、まだ分からない」 「だからって、お前を置いてくなんて無理だ。俺もうすぐ発情期だし、外を一人で歩くなんてどうなるか……」  とにかく彼を置いて行きたくなくて、適当な理由を付けてごねる。 「発情期の心配が無ければいいのか?」  アラタは無表情にそう言うと、旭の身体を抱き寄せて首筋に唇を寄せる。  まさか――。  そう予感した次の瞬間、ガリッという痛みがうなじに走った。 「は……何、で」  これは番の契約だ。何の前触れもなく、躊躇いもなかったが、大きな意味を持つ行為。 「これで旭が発情しても俺以外誰も反応しない」  しれっと言い放つアラタに、旭は大慌てで食ってかかった。 「そうじゃなくて、お前分かってるのか? 俺と番になんかなったって――」 「旭は嫌だったのか? 俺はてっきり旭も同じ気持ちだとばかり思っていた」 「俺じゃなくて、お前が! 俺、結局妊娠しない理由分かってないままだし、俺と正式に番になりたい奴なんて――」  旭は唇を噛んで俯く。これまで何人ものαを相手にしてきたが、誰一人として旭のうなじになど興味を示さなかった。あの庸太郎でさえ。 「子供ができないから旭を手放す? そんな選択肢はない。早く行け。部屋に誰かきて穴が見られたら計画はおしまいだ」  つまらないことを言うなとばかりに、アラタは旭の身体を押した。 「絶対、外で会えるんだよな?」  旭は首筋の噛み跡にそっと手を這わせる。 「番にしておいて一生俺を一人にするなんて、そんな酷いことしないよな?」  それは想像するだけで恐ろしく、思わず声が震えた。アラタは確かに頷いてから「早く」と旭を催促し、旭が狭い隙間の向こう側に出たのを確認してから、水音のする穴の向こうへ消えてしまった。  もし今のが今生の別れだったらどうしよう。  暗い足元から這い上がるそんな不安を蹴り飛ばすように、旭は言われた通り先へと進んだ。  少し行くと、先ほど反対側で見たのと同じような通路に出る。まだ電気が復旧していないため、足元の灯りもなく見通しが悪い。どうやらこちらは電力ではなくガスなどの設備があるようだが、今こちらに用がある者はいない。  アラタの言った通り、壁に触れながら右方向へ進むと、行き止まりにはドアがあった。  開けたら誰かいたりして。そしたら全部おしまいだ。  ぶるりと震えてから、思い切ってドアを開く。ギギギーと鳴った音がやけに大きく聞こえて、心臓がバクバク鳴った。  だがそんな心配は全て杞憂だった。開けた瞬間に、懐かしい初冬の冷たい空気が身体を包む。そこは地下階の外壁を囲むように掘られた溝で、上を見上げるともう夜空が見えた。  すぐ上の地上は芝生になっているのか、七年ぶりに緑の匂いが鼻を擽る。ジーンズに薄手のVネックセーターという格好ではさすがに寒いが、今はそんなことを気にしている場合ではない。外に出られた感傷も、今は全部後回しだ。  どこかから上に上がれるはずだと言われた通り、建物に沿って少し歩いて行くと、壁に梯子のような金具が埋め込まれた場所を見つけた。  ここを登りきったらどうすればいい? そういえばあいつ、外に出てからのことは全然説明してくれなかったな。とにかくこの研究所の敷地を出よう。  梯子を登る旭の頭は、もう地上に出た後のことしか考えていなかった。だから、周囲に対する警戒の視野が狭まっていた。  やっと地上に手が届いたと思ったその時、旭の頭上を黒い人影が覆う。 「旭」  聞いたことのある声にハッと顔を上げると、屈みこんで見下ろす人物と目が合った。  庸太郎。  ああ、全部、おしまいだ。  冷たい外気の中、旭の思考までもが完全に凍りついた。

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