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22.1 道
固まった旭に向かって、庸太郎は手を伸ばしてきた。
「旭、何してるんだ。早く」
「え……?」
旭は状況を飲み込めないまま、庸太郎の力で地上に引き上げられ、さらに引きずるように連れられていく。
「こっちだ。俺の車がある」
彼が向いた方向には確かに駐車場があるようだ。
「車って、どこに連れてくつもりだ?」
「あの人に、一条さんに頼まれた場所」
「アラタから何か聞いてたのか?」
旭の問いかけを無視して、庸太郎は一台の黒い車に近付いた。鍵を開けた彼は、後部座席に旭を押し込む。
本当にこいつを信じていいのか? このままおかしなところに誘拐でもされるんじゃないか?
危機感を覚えた時にはもう庸太郎が運転席に座っていた。
「今日決行するから、外に出た旭を頼むって、一条さんが何日か前に言ってきた」
エンジンをかけてからやっと彼は質問に答えた。「少し頭伏せてて」と言ってから、彼は車を発進させた。しばらく車体が右へ左へとゆっくり曲がった後、スピードに乗ってまっすぐ走り出す。「いいよ」と言われて顔を上げると、窓から見える景色はもう夜の車道だった。
外の世界だ。車のライトが流れ、通り沿いにすれ違う建物には窓から明かりが漏れている。
違う、今はそんなことを気にしてる場合じゃない。
旭は窓の外へ向けていた意識を、目の前の運転席に集中させた。
「お前はどこまで知ってるんだ?」
バックミラー越しに庸太郎と目が合う。
「一条さんからは先々月あたりから、協力者になってくれないかって頼まれてたんだ。部屋の外で二人きりになれた時に話をしてて……最近一条さんは研究員の誰かと食事に行くのも許可されてたから」
「協力者?」
にわかには信じがたい話だ。なぜなら、アラタと庸太郎はとにかく一緒にいるだけでギスギスと険悪な空気になるほどだったから。
「あの研究所が、過激派の反Ω団体と繋がりを持ってるんじゃないかって。職員に対してどんな教育がされているのか、インターンの俺を通じて確認したいって言われた。俺も旭がレイプされてるのを見た時から、あそこは何かおかしいとは思ってて、旭のためって名目であいつと俺は一致したわけだ」
「確かにここの研究員たちは俺に冷たい奴が多かったけど、反Ω? 教育? そんなこと、あり得るのか?」
あれは全て傲慢なαの生来の気質なのだとばかり思っていた。中学の頃からも、あの事件があってからも、旭の中のα像は最悪なものだったため、何もおかしいとは思っていなかったのだ。しかし確かに、旭の知っているαの範囲はあまりにも狭い。
「さあな。俺はインターンで学生だから、この研究所に入り浸ってるわけじゃない。特に教育って言われるほどのことも、まだ何もされてないんだ。教育する対象を選んでるのかもしれない」
組織ぐるみのきな臭い話が突然持ち上がり、旭は研究所で見聞きした様々な事柄を思い出した。
「あ、アラタの母親が弁護士で、その人が追ってる別件っていうのが、その話……?」
庸太郎は少し躊躇ったが、赤信号で車を止めてからおもむろに口を開いた。
「一条さんの母親なら、ちょうど一年くらい前、去年の今頃に亡くなってる」
「えっ!?」
「旭はニュースは見ないんだったか。路上で刺されたんだよ。旭の両親が亡くなった事件で、彼女は犯人を無罪にしたせいで恨みを買ってた。犠牲者の遺族だったΩに刺されて、その時ちょうど一緒にいた彼女の息子も怪我をした」
「アラタが怪我で病院に行ったらαだって分かったって言ってたのは――」
「おそらくその時の怪我だろうな」
記憶の中にあるアラタの手紙では、確かに母親に関することは過去形で書かれていた。
母親の死。
まだ去年の話なのに、旭は一切聞かされていない。あの無表情の下に悲しみなどはなかったのだろうか。
「何で、黙ってたんだろう」
別に誰に聞いたわけでもないのに、庸太郎は律儀に会話を返してきた。
「弁護士を恨んでる遺族のΩ――旭と同じ境遇の人間が罪を犯したってことが、言いにくかったんじゃないか?」
確かに、何かが間違えばアラタの母親を刺していたのは旭だったかもしれない。
「母親殺されてんのに、俺だってその犯人と同じようにあいつの母親を憎んでるのに、わざわざ俺を助けにくるって、ホント馬鹿じゃねーの」
「そんなこと、心にも思ってないくせに」
旭のか細い声を、庸太郎が笑って吹き飛ばす。
「旭がΩだろうが、自分の母親を恨んでいようが、あの人には関係なかったんだ。そんなにまで一途だったからこそ、あの人は旭の心を……手に入れた」
庸太郎は郊外の田舎道を遠い目で見ている。
「お前、何、言って――」
「俺、自分で決めてたんだ。もし旭が俺の子供を妊娠したら、何が何でも旭を振り向かせてみせるって」
彼は無理に明るい声を作ってせいせいとそう言った。
「悪いけど、もう無理だから」
旭が血の滲むうなじに手を当てると、バックミラーの中で彼は目を瞠った。
「は……あの人は、旭に子供ができるかどうかも気にしなかった。俺に勝ち目なんか最初からなかったんだな」
彼がいつも向き不向きで諦めてしまうところが、旭は昔から好きではなかった。そんな中、彼が初めて勇気を出して手に入れようとしたのが旭だったのかもしれない。しかし旭はもう一緒に歩いていく人を決めてしまった。幼馴染だった彼とは、この先もずっと幼馴染のまま、道が完全に重なることはない。
どうしようもないことだが、旭の胸には小さな痛みが残った。
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