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22.2 一条新の裏側

 今まで知らなかったが、研究所は茨城にあったようで、そこから高速を経由して一時間半ほどで、車は都内のビルの前に停車した。 「晴海弁護士事務所?」  ビルの三階に上がり、そこに掲げられた看板を読み上げる。 「詳しくは分からないけど、元は一条弁護士事務所――一条さんの母親がやってた事務所だそうだ」  そう言ってから、庸太郎は明かりの漏れる事務所のドアをノックした。ドア越しに「はい」というくぐもった声が聞こえ、扉を開けて出てきた人物に旭は思わず声を上げた。 「あっ……」 「篠原、君?」  アラタに弁当を運んできていた背の高い女性。スーツ姿にすらりとした長身と、綺麗な黒のロングヘアー。やはり旭よりも背が高く、彼女は弟を見下ろすような目でこちらを見ていた。 「一条さんからここに連れて行くよう頼まれました」  庸太郎がそう言うと、彼女は旭と庸太郎以外誰もいない廊下を見た。 「どういうこと? 一条君は?」  旭はここを出てきた経緯について、半月ほど前から遡って全て説明した。 「今月は指示が来ないからどうなったのかと思ってたら」  彼女は冷静にそう言うだけで、アラタへの心配や焦りは見えない。そういえば、彼女が何者なのかもまだ聞いていなかった。 「あの、あなたは――」 「ああ、ごめんなさい。ここで弁護士業をしている晴海花恵(はるみはなえ)です。一条君の母親、一条瞳子さんの友人で、彼女が亡くなった後にここを継ぎました」  アラタの母親世代の友人ということは、この若々しい見た目でかなり年上なのかもしれない。旭は思わず気を抜いて安堵の溜め息をついた。 「なんだ、ハルミって苗字か……」 「え?」 「な、何でもない、です。その、アラタにいつも弁当を持ってきてた人だなって」  旭がぶんぶんと両手を顔の前で振ると、彼女はくすりと笑った。 「見られてたの。そう、いつもコンビニ弁当を弁当箱に詰め替えて持って行って、彼はそれを返す時に連絡があればメモを入れてくる。私は公安からの指示があればメモを入れたり、黒野製薬というところに薬を取りに行って、それを弁当の中に紛れ込ませたりする役割だった」 「アラタに協力を頼まれた……?」 「そうだけど?」 「その、アラタとは、どういう関係で――」 「彼は友人の息子さんで、さらに私の部下。彼もここの事務所で働いていたから」  彼女は全く何でもない事のようにさらりと答える。旭は自分でもなぜここまで彼女を詮索しようとしたのか分からない。ただ、一度はアラタの恋人ではないかと疑ったことがある上、研究所に対してもアラタの恋人として演技をしていた彼女に、拭いきれない嫉妬のようなものがあるのも確かだ。  余計なことを聞いてすみません、と謝るべきか迷っていると、彼女は意味深に笑った。 「へえ、メモを通じて聞いてはいたけど、本当に一条君の一途な恋は実ったんだ」 「い、一途!? な、何で、知って――」  思わず口走ってしまってから、墓穴を掘ったことに気付く。しかし時既に遅く、彼女のいたずらな瞳は旭にしっかり照準を合わせていた。 「だーって、一条君いっつも瞳子さんと喧嘩してたし。あの事件の裁判を瞳子さんが請け負うと決めた時も、まだ学生だった彼がここに乗り込んできて大変だったんだから。旭を傷付けた犯人を弁護するのかって。その時は弁護士になるのをやめるとまで言って大騒ぎ」  彼女はフランクにそう言って肩を竦める。 「アラタはお母さんと仲直り、できたんですか?」  自分の知らない過去のアラタに興味を持ち、旭は恐る恐る尋ねた。 「しばらくは絶交状態だったけど、瞳子さんはあの事件の犯人を無罪にしてからも、不審点を調べ続けてた。毒ガスを撒いた実行犯が弁護通りの精神状態であったことに間違いはない。でもその原因は単なる精神病ではないんじゃないか……ってね」  彼女が急に真面目な顔つきになり、旭もつられて神妙な面持ちになった。 「精神病じゃなければ何だったんだ?」 「んー、洗脳?」  彼女の言い放った一言に、旭は「は?」と疑問を顔いっぱいに表した。 「犯人は地元の精神科にしばらく通った後、白峰製薬と提携した白峰十字病院に転院したんだけど、病院を移る前と後のカルテでは病状が大きく悪化していた。転院時に大きな間があった訳でもないのに、おかしいでしょう? 裁判の時はその場での精神鑑定結果を元に、瞳子さんは犯人を責任能力無しと主張した。でも、カルテの相違の件だけは公安と繋がりを持って継続調査してた」 「ごちゃごちゃ言われても分からないから短く」  まだまだ話が続きそうだったため、旭は彼女にそう頼んだ。 「あの犯人は白峰十字病院の精神科医に治療を受けに行ったのに、洗脳されてもっと悪化したどころか、反Ωの思想を植え付けられて、犯行を実行した。あの病院とそこの地下に繋がっている研究所は、過激な反Ω派の温床になっている――と疑われてるってこと。それを今一条君が調べてる」 「精神科医……」  その瞬間、優しい崎原の顔が頭に思い浮かび、旭の背筋がぶるりと震えた。 「犯人を裏でマインドコントロールした人物が見つかって裁かれれば、あの事件の遺族も少しは気が紛れる。自分の掴んだ無罪で悲しんだ人のことまで、瞳子さんは考えた。弁護士の仕事の範疇を越えてまで」  彼女の言葉は、まるで一条瞳子という人物に理解のない世間を、いや、旭を責めているようにも聞こえた。 「弁護士になった一条君は母親を避けて大手の弁護士事務所に勤めていたんだけど、彼があなたの行方を探していた時に、瞳子さんの調べていた件と繋がってね。彼はこの事務所に移ってきて、二人はまた協力するようになった。だから、まあ仲直りしたと言えばしたのかな」  旭の最初の質問にやっと答えた彼女は、今までの真剣な空気を崩してにこりと笑みを作った。 「俺、何も知らなくて」  アラタのこと、彼と母親の関係のこと。知らない間に自分が彼らに影響を与えていたという事実に、少し責任を感じた。 「あいつ、戻ってくるよな? 俺が勝手に脱走しただけで、あいつは関係ないって、ちゃんと納得させられるよな?」  ここで聞いても意味がないことは分かっていたが、同意してほしくて畳みかけるように言葉が口から飛び出す。しかし晴海はやはり毅然とした態度で腕を組んだ。 「まずは待つしかないでしょうね。私も明日、いつもコンタクトを取っている公安の人に連絡してみる」 「俺も次のインターンの出勤日には中の様子を見てくる」  隣にいた庸太郎が旭の肩を叩いて宥めようとしてくれる。 「じゃあ、俺は――」 「ああ、あなたは研究所から捜索されてるかもしれないから、しばらくはここに身を隠してね」 「は!?」  こんな時に自分だけおとなしくしているわけにはいかないのに、晴海は有無を言わせぬ圧力で旭を押し潰した。 「またあそこに連れ戻されるのは嫌でしょ? あなたの伯父さんの家も、昔住んでいた家も、真っ先に彼らが探しに来る。電話を貸すから、伯父さんにだけ連絡して、研究所から出られたけどしばらく戻れないって伝えて」  彼女は部屋の隅にある電話の子機を取りに行ってしまう。次々と進んでいく話についていくのがやっとだ。 「でも、俺もうすぐ発情期で、他の人に迷惑はかけないはずだけど、いつ始まってもおかしくない時期で――」  ここにいろと言われても、応接用のソファや事務デスクの並ぶ室内は明らかに仕事用の事務所だ。こんなところで発情などしてはいられない。そもそもアラタと番の契約をしたとはいえ、これで本当に他のαにフェロモンが無効になっているかも分からないのだ。  無意識にうなじに手を当てていると、晴海はそれを見て目元を和らげた。 「大丈夫。この事務所の部屋じゃなくて、上の階に部屋があるから」 「部屋……?」  彼女は答えることなく、まずは伯父に電話しろと旭に受話器を押し付けた。 ***  案内された部屋は同じビルの五階で、このフロアは普通のマンションのように個室が並んでいる。このビルは下の方の階をテナント募集し、上階を個人用マンションとして貸しているようだ。  旭は渡された鍵を使って、指定された部屋のドアを開ける。 『一条君がこの事務所に勤めるようになってから住んでいた部屋なんだけどね』  先ほど鍵を手渡しながら晴海はそう説明した。自宅と事務所が離れているのは面倒だということで、アラタは仕事場と同じビルに住んでいたらしい。  真っ暗な玄関でぱちりと明かりをつけると、廊下だけが明るくなった。いつかアラタは自宅の電気や水道を止めていると言っていた気がするが、あれも嘘だったのだろう。  弁護士といえば高給取りだろうに、廊下を抜けた先はキッチンもダイニングも一緒になったワンルームだ。比較的新しい建物で部屋自体もそこそこ広く、家賃は決して安くはないだろうが、それにしても地味な印象の部屋だった。物もほとんどなく、ベッド、机、ソファ、テーブル、テレビといった必要最低限の家具しかない。  あいつらしいと言えばあいつらしいかな。  旭は何とはなしに部屋の隅にあるクローゼットを開ける。ハンガーにかかっているのは本当にスーツばかりで、引き出しを開けると全くお洒落ではないチェック柄のパジャマが顔を出す。  楽しくなった勢いで今度はデスクの一番上の引き出しを覗いた瞬間、思わず変な声が出そうになった。引き出しを開けた時にいつも見えるような場所に写真が置かれている。  写っているのは旭と両親だ。  これ、いつ撮ったやつだ? 俺も父さんたちもカメラ目線だから、盗撮じゃなくて記念撮影か何かか?  こういう時に旭の記憶能力は便利なもので、これはいつかの個展の時に画商に撮ってもらった写真だと思い出す。きっとアラタがそこから貰ったものだろう。  やっぱりストーカーだ、あいつは。  見なかったことにして引き出しを素早く閉める。  そこで部屋のチャイムが鳴った。いつもの癖で誰かが入ってくるのを待っていたら、急かすようにドアがノックされる。慌てて玄関ドアを開けると、スーパーのレジ袋を提げた晴海が立っていた。 「返事がないからびっくりした。どこかに消えちゃったかと思った」 「すみません」 「もう寝てた? 私がたまに掃除に来てたんだけど、埃っぽかったらごめんなさいね」  彼女はそう言ってから袋の中身を取り出し始めた。 「食料はかなり買い込んだから発情期の何日かは保つと思う。あと、普通の薬があなたに効くかは分からないけど、抑制剤も何種類か」 「あの、ありがとうございます」  彼女はさらに連絡用の携帯電話を置き、何かあったら連絡するようにと告げて出て行った。  一人になると途端に部屋の中が寒くなったような気がする。ここはもう外から気温の管理をされている地下室ではないのだ。エアコンのスイッチを入れ、ベッドの上にボスンと座る。  まさかほんの何時間か前までは、今日こうやって外に出ることになるなんて思いもしなかったな。  旭はそんなことを考えながら、ぼんやり部屋を見渡した。カーテンの閉められた窓の向こうには都市の夜景があり、部屋の壁を隔てた先には他の人間が普通に生活をしている。  なぜかまだ信じられない気持ちだった。あの監禁生活も全部夢だったような気がしてくる。アラタと二人で過ごした半年強の生活さえ幻になったような不安で、今日何度も触れた首筋に手をかけた。もう血は出ていないようだが、彼の歯の跡は確かに残っている。  本当は、あの監禁生活中に何度もこう思った。「別件の証拠なんてどうでもいいから、今ある監禁の証拠だけで一緒に外に出よう」と。「その別件は、俺の監禁よりも重要な事件なのか?」と。  しかし晴海から真相を聞いた今となっては、そんなことを口にしなくてよかったと思う。旭を始めとする遺族の無念を晴らすことを、殺された母親の意志を継ぐことを、彼は諦めなかった。彼は単にあの研究所から旭を解放するだけでなく、過去のあの事件についても旭の悲しみを救おうとしてくれていたのだ。  そんな聖人のような男を、あそこに置いてきてしまった。自分だけが今こうして助かっている。  罪悪感を抱きながらゴロリとベッドに仰向けになると、見慣れない天井が視界一杯に広がった。しかしベッドの布団からは、ほんの微かにアラタと同じ匂いがした。  旭は寒さをしのぐように掛け布団の中に潜り込む。 「アラタ……」  匂いと温もりで、彼に包まれている気がしてくるのだから重症だ。  俺だって十分変態かもな。  心の中でそう自嘲してから、布団に顔を埋めて目を閉じる。今夜は風呂にも入らずさっさと眠ってしまおうと決めた。  一眠りして起きたら、きっとあいつが帰ってきてる。俺がいなくなった今、アラタはもうあの研究所にとどまる理由なんてないんだ。大丈夫。大丈夫。  旭は自分にそう言い聞かせる。  しかし翌朝になってもその翌朝になっても彼は戻らず、旭は一人で数日間の発情期を迎えてしまった。

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