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23.1 彼のためにできること(1)
発情期が落ち着いたすぐ翌日、旭は下の階にある事務所へ向かい、応接スペースのソファで晴海と向かい合っていた。
電話で発情期中も話は聞いていたが、アラタの処遇は晴海に伝わってこず、庸太郎も年明けまでインターンは中断だと告げられてしまったらしい。
「公安の人はなんて?」
旭の声は自分でも分かるほど疲れ切っていた。
「まだ捜査は終わってないって」
「捜査って――」
「彼らの目的は過激派団体の証拠を掴むこと。一条君はまだそのスパイ任務中とみなされてる」
テーブルの上に置かれたグラスの中、氷が溶けてカランと音を立てた。
旭があそこを出てからもう一週間、さすがにそれだけ長くアラタが姿を見せないとなると、彼は何らかの理由であの研究所に足止めされているということだ。旭がいなくなった以上、実験のための拘束ではない。旭を逃した疑いをかけられていると考えた方が現実的だろう。それは確実に友好的な抑留ではない。
襲い来る最悪の想像を振り払い、旭はきゅっと唇を噛んだ。
「この前晴海さんが話してくれたことが本当なら、確かに捕まえないとやばい連中なんだと思う。でも、アラタが……民間の協力者が無事かどうかも分からないまま進めるってやり方は、どうなんだ?」
アラタと協力している公安と聞いて、旭はてっきり正義の味方のような人を想像していた。しかし実際は、協力者のアラタすらも駒としかみていない、冷酷なエージェントのような対応だ。
「俺が軟禁されてたことについては、俺が警察にでも被害届を出して、あそこを捜索させれば例の軟禁部屋が見つかる。とりあえずそれで逮捕してさ、反Ωとかそう言うのは、取り調べか何かのついでに問い質すとか――」
「仮にあなたの監禁の罪で別件逮捕できたところで、反Ω団体としての証拠が何も出なければそちらの件は逃げられてしまう。そしてこれまで一条君から受けている情報では、彼らは形に残る証拠を残していない。下手に一部の件で追い詰めて刺激するのはよくない、というのが彼らの判断」
旭は彼から何も報告を聞いていないが、簡単に見つかる証拠がなさそうなのは分かっていた。彼が研究員に取り入って食事に行ったり、庸太郎に協力を要請したりしていたところから察するに、職員への教育現場そのものをカメラに収めるつもりだったのだろう。
旭は膝の上で拳を握り締めた。
「俺、国立のABO型研究センターからあそこの研究所に移されたんだ。もしもあの研究所の悪事が暴かれたら、そこに俺を送った国立の研究センターまで責められることになるよな。国の機関の不祥事……公安の人は本当にちゃんと動くのか?」
「事実だけ確認したら揉み消すかもしれないってこと?」
晴海の疑問に旭は大きく頷いた。
「それで、真実を知ってる協力者――アラタは用無しだから、あの研究所でどうなってようが気にしない、とか」
旭の最悪の想像を晴海は否定してくれなかった。嫌な予感が膨れ上がり、旭は無理に笑顔を作る。
「俺、軟禁中暇だったから、ドラマとか見過ぎたせいで変なこと考えるんだよな」
晴海との会話ではそれ以上建設的な案は出ず、旭はトボトボと上階のアラタの部屋へ戻った。
あいつは俺のことを助けにあの研究所まで来てくれたのに、俺は何もできないのか? 助けられるばかりなんて、そんなお姫様みたいな役割はゴメンだ。男だからとか、Ωだからとか、そういうんじゃなくて、人間として大事な人の一人も助けられないなんて、絶対に嫌だ。
旭はアラタの使っていたデスクを撫で、そこに置かれていた借り物の携帯電話を手に取った。ネットには繋がるようになっており、伯父からのメールが入っている。内容は研究所での面会と同じ、「何も問題はないか」というものだった。
旭自身に問題はない。だが、アラタのことだけが不安だった。
本音を言うと今すぐにでもあの研究所に戻って乗り込みたい。しかし旭がまたあそこに捕まってしまったが最後、アラタが旭のためにしてくれたこと全てを無駄にすることになる。ひとりよがりな気持ちだけで突っ走っても何もならない。それを分かっているからこそ、どうしようもない焦燥感ばかりが胸の中に溜まっていった。
あの研究所に直接接触に行かず、しかしアラタのためになるような遠隔の援護方法はないものか。少なくとも、旭の脱走に関して彼が協力関係にあったことだけは真っ先に否定しなければならない。旭は手の中にある携帯電話をじっと見つめた。
ネット……今なら個人で情報発信ができる。告発のブログとか作るか? いや、そんなもの世間やあの研究所の誰かに見つけてもらえるとは思えない。
無力感に苛まれながら、アラタが使っていたであろうデスクチェアに腰を下ろす。そこから部屋の中を見渡し、ある一点に目を留めた。
テレビ。マスメディア。あの事件で旭を苦しめたものの一つ。
あの狭い部屋の中、暇潰しにニュース以外の番組を見ていた時も本当はずっと引っかかっていた。マスメディアが大嫌いなはずなのに、テレビを見ているという矛盾に。
しかし薬にしても同じことだ。白峰製薬の新薬開発の現場にはΩ差別がはびこっているのに、世間のΩは彼らの薬を使わざるを得ない。
この社会は理不尽だ。あの監禁部屋をディストピアだと馬鹿にできるほど、外の世界は美しくもない。どこもかしこも、うまく回っているように見えて少しずつ歪んでいる。自由と正義だけが物を言う理想郷などありはしないのだ。
俺はこの狂った社会を肯定するわけでも、許すわけでもない。ただ、「間違ってる」っていつまでも反抗するだけの子供でもいられない。ただ、あるがままを利用させてもらうだけだ。
旭は携帯でとあるページに検索で辿り着き、そこにあった番号に電話をかけた。
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