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23.2 彼のためにできること(2)

 十二月、旭が研究所を脱走してからもうすぐ一か月になろうとしていた。世間は年末に向けて慌ただしくなり、街中はクリスマス一色に浮足立つ。  あれから不審な人物が旭を連れ戻しにうろつくこともなく、旭は自分のお金で徐々に普通に近い生活ができるようになっていた。  ゴミを自分で外に捨てに行くこと。食材や日用品を全て自分の手でレジで会計して購入すること。洗濯物を部屋の外に干すこと。そんな些細なことも全て新鮮な日々だ。  その日も夕飯のためのコンビニ弁当を買った帰りがけに、途中の階にある晴海の事務所に顔を出した。借りていた携帯を解約して、自分で契約し直したと伝えるためだ。  ドアを開けた瞬間、応接スペースにあったテレビを見ていた晴海が振り向く。彼女の肩越しに見えるテレビに映っているのは、まさに旭自身だった。 「篠原君、これは」  彼女は放送中の番組と旭の顔を交互に見た。 「ああ、今日放送だったっけ。俺、取材受けたんだ」  十九時のゴールデンタイムに始まったであろうその番組は、新たなΩ支援法の施行に伴った特番だ。  一か月ほど前、旭はテレビ局に電話をかけてこう言った。 「七年前に起きたΩ大量毒殺事件についてお話したいことがあるのですが」  始めは相手にしようとしなかった彼らだが、あの事件で亡くなった画家の篠原の息子だと言うと、彼らはすぐに餌に食いついた。事件や事故の遺族というのは、彼らにとって視聴率を稼ぐいい道具なのだろう。しかも、子供はいないとされていたΩ同士の画家、篠原に息子がいたというのもスクープだ。  テレビの映像はちょうど小さな個室でインタビューを受ける旭が映し出されている。クオーターの整った顔立ちや、すらりとした体型は、一般人よりも芸能人に近い。  画面右上に出ているテロップには『霧の土曜日事件の遺族 Ωの生活実態を語る』などと仰々しく掲げられている。霧の土曜日というのは、メディアがあの事件に勝手に付けた俗称だ。 「旭さんのように新薬開発のため人体実験に参加しているΩはどのくらいいるんでしょう?」  レポーターの質問に、テレビの中で旭が軽く首を振る。 「分かりません。Ω用の薬を開発している製薬会社はいくつもありますから」 「ちなみに旭さんはどこの製薬会社に協力を?」 「それは言えないです。っていうか、もしそれがここのスポンサーだったら放送してもらえないでしょう」  嫌味を押し隠し、旭はテレビの中のアイドルのように笑っている。 「とにかく、旭さんが今ここにいるということは、実験から解放されたわけですよね」 「解放というか、逃げてきました。ちょうど停電になった瞬間があって、ドアの電子ロックが開錠されたんです。その隙に」 「旭さん以外のΩはそこにはいなかったんですか?」 「Ωはいませんでしたが、αはいました」 「そのαは今どこに?」 「さあ? 真っ暗な中で必死だったので、その人とは一緒に出られませんでした。もしかしたら今も拘束されているかもしれませんね」  インタビュアーに向かって、旭はしれっとそう答える。我ながら役者だなと旭は自画自賛した。 「それは警察などに情報提供した方がいいのでは?」 「あのαの人は自分から研究に協力すると言って入ってきて、研究員の人とも食事に行ったり随分仲良くしていたみたいなので、同意の上の関係なら警察もどうこう言えないんじゃないですか? 現に警察やなんかがあの研究所に目を付けてるなんて話、全く聞いたことないですから」 「あなたと違ってαの方は優遇されていたということですね」  インタビュアーの声が神妙になる。ここでΩ差別を実感しろという合図のような手慣れた誘導だ。 「はい。あの人は研究所からの命令で俺に手酷くしたり、急に優しくしたり……。俺を振り回して、他の研究員と一緒に俺のことを笑ってたんだと思います。それで、もう愛想が尽きてしまって……一人で逃げました」  旭もインタビュアーに合わせて暗い顔を作る。 「もちろん製薬会社の人が皆悪い人という訳ではないです。優しくしてくれた人もいましたし……。特に精神科の先生、まだ三十歳にもなってない若い先生でしたけど、ここからお礼を言いたくて今日は取材を受けました」  その後画面は旭が部屋を去っていくシーンを流し、男性の声による「旭さんは今、製薬会社から身を隠しながら社会復帰を目指しています」というナレーションが流れた。  画面がスタジオのタレントたちを映し出すと、晴海は旭を見て説明を促した。 「俺が今外からできることって言ったら、あいつと俺は無関係だって大声で言ってやることくらいだから」  本当は電話する先を警察にした方が良かったのかもしれない。しかし調べたところ、アラタに潜入を依頼している公安と警察は別物らしく、余計な揉め事を避けつつ即効性のありそうな方法がマスコミしか思い浮かばなかったのだ。 「公安の人に怒られるかな? でもさ、アラタのこと見殺しにしてるような奴の言うことなんて、俺が聞いてやる義理もないだろ」  旭はわざと悪ぶって肩を竦める。なんだかんだと言いつつ、アラタがもし今も公安からの任務を遂行しようとしているなら、その邪魔になるようなことは言わないようにしたつもりだ。 「あなたは、これで良かったの? これから他のテレビ局やメディアがあなたに興味を持つかもしれないのに」  晴海は責めるでもなく、旭を心配そうに見つめた。 「また父さんたちが死んだ時みたいに、カメラから隠れる生活になるかもってこと? 白峰製薬から隠れて生活してる今の状況なら、むしろ俺の周りにマスコミがいた方がボディーガードになるだろ」  旭は喉の奥で笑う。さすがに衆人環視の中で旭を連れて行こうとする者はいないだろう。 「それだけじゃなくて、あの篠原さんに子供がいたこととか、隠してたんでしょう?」 「そんなの、親のせいで子供の俺まで注目集めないようにってだけのことだし……」 「一条君が言ってた。あなたは自分の絵を出した時、親の名前を出さなかったって。画商に聞いて初めて知ったって」  旭は手の中のコンビニ袋を握り直した。 「親の七光りだと思われるのが嫌だったから。まあ、バラしたからにはもう、俺の絵が親と関係なく評価されることはなくなったのかもな」  それについて何も躊躇いがなかったと言えば嘘になる。ソファに座ったまま固まる晴海に、旭はテレビ画面の中で見せたのと同じ笑顔を作った。 「でも俺、アラタが帰ってこないならもう絵を描くつもりないから。あいつに見てもらえないなら、描く気にならない」  旭は当初伝えるつもりだった携帯電話の契約の件と、もうすぐまた発情期が来ることを告げて事務所を出た。  俺、馬鹿なことしたのかな。俺がもっと頭が良ければ、こんな方法以外の何かを思いついたのかもしれない。  上昇するエレベーターの中で、旭は晴海の顔を思い出しながらそんなことを考える。取材を受けてから半月以上経っているが、今更取り返しのつかないことをしたのだと突きつけられたような気がした。  しかし後悔はない。身の回りの平穏も、画家としての正統な評価も、何もいらない。彼に助けられた恩を今こそ返す時だ。アラタを取り戻すことだけが、今の旭にとって大事なことだった。  エレベーターが停止して身体がふわりと浮く。自動的に電気の灯った廊下を、旭はしっかりとした足取りで進んだ。

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