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第8話 幸せのキャパシティは埋められる

 目覚まし時計の音に、意識が覚醒する。  カーテンの隙間から、朝日が部屋へと差し込んでいた。  けたたましく鳴り響くアラームを止め、思わず頬を緩めた。  随分と幸せな夢を見たものだ。   こんな都合の良い話があるはずがないと、自分勝手な夢を嗤った。  いつもと変わらない朝だ。 「おはよう、任」  擦れ違い様に、郭遥の手がオレの頭をくしゃりと混ぜる。 「……?」  一瞬、何が起きたのか、わからなかった。  撫でられた頭を両手で押さえ、首を竦めたままに郭遥の背を視線で追う。  郭遥は何事もなかったかのように、いつもの輪の中に馴染んでいく。  昨日の出来事は、夢ではなかった…らしい。 「いつの間に仲良くなったんだ?」  友人、佐野(さの)の驚きが混じる音に、視線を戻した。 「ぁあ、あれか。昨日の日直か」  閃き顔で勝手に納得する佐野に、昨日の出来事がオレの都合の良い妄想ではなかったのだと、改めて認識する。  ぶわりと蘇る郭遥の唇の感触と、夢じゃないと噛みつかれた痛み。 「顔赤くね? え? もしかして……?」  もう1人の友人、駒井(こまい)が、恋バナに沸き立つ女子のような反応を見せる。  オレは慌て、身体の前で両手を振るった。 「いや。違う、違う。違わないけど、違う」  懸命に頭を占める昨日の記憶を振り払いながら、意味のわからない言葉を紡ぐ。  あわあわと否定するオレに、2人は何を言っているんだと顔を顰める。 「いや、オレが憧れてるのは否定しないけど……、あいつは違う、から」  2人だけが聞き取れる程度まで、声量を抑えた。  オレの想いは認めても良いが、郭遥の気持ちを暴露するのは違う気がして、そこは否定しおく。 「ほら。あいつ優しいからさ。オレが憧れてるって知って、優しくしてくれてるだけだよ」  申し訳ないという気持ちを全面に押し出した困り顔で説明するオレに、佐野は納得顔で頷く。 「まぁな。あいつ、許嫁いるしな」  呟いた佐野の瞳が、郭遥の背を見やる。 「許嫁?」  引っ掛かった単語を、無意識に鸚鵡返ししていた。 「そ。ここに通ってるお坊っちゃまたちは、将来が決まってんだよ。ここ出て、有名大学行って、家業継いでっていうレールが敷かれてて、その道中に、どこぞのお嬢様との結婚も組み込まれてるって訳」  オレの疑問を、駒井が解決してくれた。  当たり前か。  郭遥は、あのスズシログループのたった1人の御曹司だ。  将来や許嫁が決まっていたとしても、なんの不思議もない。  好きだと告げ、好きだと告げられた。  気持ちを確認しあったところで、オレたちは住んでいる世界が違う。  オレたちの関係に、〝この先(はってん)〞や〝先行き(しょうらい)〞なんて言葉は、存在しない。  あの1度きりのキスを、大事に記憶の宝箱にしまえばいい。  想いも伝えられず、忘れ去られる覚悟は()うの昔に出来ていたじゃないか。  それに比べれば、何万倍もの良い思いをしたんだ。  嫌悪などないと、優しくしてもらった。  夢じゃないと、少しだけ痛いキスをくれた。  挨拶ついでに、頭を撫でてもらえた。  それだけで、オレの幸せのキャパシティは埋められる。

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