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第71話 放っては置けなかった <Side 近江

 郭遥が澪蘭を拒絶した日。  俺は、出張から戻ってきた郭遥を捕まえるために、彼らの家を訪れていた。  使用人たちも帰宅の途についており、屋敷全体は、がらんとしていた。  まだ帰ってきていないのかと、リビングで待つコトを決め、足を踏み入れる。  あられもない格好のまま項垂れている澪蘭が、そこにいた。  ソファーの上で蹲り、顔を覆う両手の隙間から、しゃくり上げる音が響いていた。  放っては、おけなかった……。  側に置かれていたブランケットを手に、澪蘭へと歩み寄る。 「そんな格好でいては、風邪を引きますよ……」  ブランケットを、ふわりと澪蘭の肩に掛けた。  かけられた声とブランケットの感触に、澪蘭は顔を覆う手を離し、俺を見上げた。  泣き濡れたその顔は、俺の腹底をじわりと炙る。 「……どうすれば、いいの?」  見かけの妖艶な印象とは異なる、幼げな声で問うてくる澪蘭に、俺は首を傾げた。  伸びてきた澪蘭の手が、俺のスーツの袖口を掴んだ。 「跡継ぎを、産まないと…捨て、られる。……でも、あの人は私を、抱かないっ…て……っ」  引いていた涙が沸き上がり、澪蘭の顔が、ぐっと歪む。  澪蘭の瞳から、ぼろりと大粒の涙が落ちていった。  俺は、わかっていた。  当主の前ですら、堂々と〝愁実は恋人だ〞と宣う郭遥が、澪蘭を愛するコトなど出来ない、と。  こうなるコトは、目に見えていた。  俺は、袖口を掴まれたままの手を伸ばし、澪蘭の頬を伝い落ちる涙を拭う。 「あなたの家、医療の家系ですよね…? セックスだけが子作りの手法ではないのでは?」  俺の助言を機に、澪蘭は郭遥に身体を重ねずに子供を授かろうと打診した。  澪蘭の進言に乗った郭遥。  2人の間に命が宿ったのは、そのすぐ後だった。  澪蘭が妊娠し、5ヶ月ほどが経った頃だ。  大学の休みを利用し、経済学の研修会に参加している郭遥は、暫く戻らない。  妊婦が1人では、不安だろうと使用人たちが帰るタイミングを見計らい、様子を見に訪れた。 「体調は、どうです?」  ソファーに座り、ぼんやりとテレビを見詰めていた澪蘭に声をかける。 「うん。いい感じ」  ふふっと小さく笑む澪蘭。  シンクへと向けた瞳に、数個の洗い物が映り込んだ。  ポールハンガーにジャケットを引っ掛け、袖を捲りながら、キッチンへと足を向けた。  あ…、と小さく声を立てた澪蘭が、腰を上げる。 「いいですよ。座ってて下さい」  澪蘭の制し、キッチンに向かった。  元々、清白の本家で使用人として働いていた俺は、そのくらいは御安い御用だと、洗い物を買って出る。  台所に立つ俺の側に寄った澪蘭は、小さく頭を下げてきた。  このくらいのコトで、頭を下げてまでお礼をいう必要などない。  若干の驚きが浮かぶ瞳を向ける俺に、澪蘭が口を開く。 「あなたのお陰で、子供を授かれたから」  少しだけ大きくなり始めたお腹を擦りながら、にこりと笑む澪蘭。 「私は、なにもしてませんよ」  かちゃかちゃとぶつかる食器の音に紛れるように、声を返した。

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