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第89話 落胆と安堵と
「おいっ、坊っちゃんって……」
洗面所を覗き込み、その言葉が指す人物が郭遥なのかと問おうとしたオレの耳に、携帯の着信音が鳴り響いた。
ちらりとオレを見やった黒藤は、遠慮などする気もなく、その電話を取る。
「もう着いたの? 早くない?」
歯磨き粉や髭剃り、洗顔料が乱雑に押し込まれたビニール袋をオレに押し付けた黒藤は、その足で玄関へと向かう。
郭遥が、オレを迎えに……?
ドクドクと心臓が、激しく拍動する。
嬉しさが沸き上がる反面、こんなボロボロの姿で会いたくないと、なけなしの自尊心が無駄にオレを焦らせる。
押しつけられたビニール袋を脇に置いたオレは、少しでも覇気を宿そうと疲れた顔を両手で掴み、刺激する。
「なに、してんの?」
きょとんとした黒藤の声に、顔から両手を剥がし、鏡越しの瞳を向ける。
「………いや」
呆れるような黒藤の視線に、ふと冷静な自分が顔を覗かせた。
今さら焦ったところで、何になるというのか。
自分の間の抜けた行動に、嗤ってしまう。
不思議そうに首を捻った黒藤は、自嘲するオレの腕を掴み、洗面所から引き摺り出す。
落としていたオレの視界に、真っ黒なソックスに包まれた男性の大きな足が映り込んだ。
高鳴る胸に、顔を上げたオレの瞳に映ったのは、見ず知らずの人物。
使用人の近江でもなく、もちろん郭遥本人でもない。
そこに立っていたのは、郭遥との繋がりなど全く想像できない、柄の悪い男だった。
……あるわけが、なかった。
今更、郭遥がオレを迎えにくるなんて、ありえねぇだろ……馬鹿だな、オレ。
郭遥ではなかったコトに、落胆する心の片隅が、微かに安堵する。
こんなボロボロの自分を見られなくて済んだコトに、どこかほっとしていた。
オレの目の前に立っている男が、すっと手を差し伸べ、口を開く。
「帰りますよ。貴方が居るべき場所に」
オレが、居るべき場所……?
言葉が何を示唆するのかわからず、オレは、ぽかんと男を見詰めていた。
怪訝な瞳で男を見やっているオレの背後に、黒藤が、するりと寄り添った。
「話はついてるから。こいつに着いていくしかないよ?」
戸惑っているオレの左の手首を掴むと、差し出されている男の手に重ねる。
触れた瞬間に、男はオレの手をきゅっと握った。
反射的に引こうとする手は、男に捕らえられ、逃がせない。
「これ、荷物。身の回りのもんと着替えね。残ってるものは、こっちで処分するから」
差し出されたトートバックを雑に受け取った男は、くるりと踵を返し、オレの手を引きながら玄関へと向かう。
「金は後で振り込む。じゃあな」
靴を履きつつ黒藤へと声を放った男に、外へと連れ出された。
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