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第90話 怖じ気づく心

 家を出てからも、男はオレの手を放してはくれなかった。  捕まれていなくとも、逃げるつもりなどないが、放してくれと頼むほどでもないかと、引かれるままに男の横を歩く。 「俺、そんなに怖いっすか?」  進行方向に視線を据えたまま、声を落としてくる男に、瞳を向けた。  視線に気がついた男の顔がオレに向き、繋いでいる手を持ち上げられる。 「ずっと、震えてますよね?」  自分が怖いからだと思っている男は、困惑気味に顔を顰めた。 「ぁあ。お前が怖いわけじゃないよ。オレ、どうなんのかな? とは思ってるけど」  手の震えは、抑えようがなかった。  震えている理由は、男が怖いからじゃない。  落ち目のゲイビデオの男優を買い取ったとして、利用価値などあるとは思えなかった。  そろそろ内臓を売られても、不思議じゃない。  その考えに、腹の底が冷え、手の震えにまで及んでいた。  男は、ゆるりと歩んでいた足を止め、じっとオレを見詰める。 「どうにもなりませんよ」  言い切った男は、オレの細かな震えを止めようと繋いだままの手を、きゅっと握る。  何かを考えるように、宙を游いだ男の視線が、オレの元に帰ってくる。 「強いて言うなら、幸せになります」  不細工な硬い笑みを浮かべる男に、瞬間的に思考が止まる。 「は?」  柄の悪い男の口から出た予想外の〝幸せ〞という単語と似合わない微笑みに、思わず声が(ひるがえ)った。  怯えから逸らされた意識に、呆気に取られたオレの震えは、ぴたりと止まる。  握っている手から伝わっていた振動が止んだコトを確認した男は、再び足を進めた。 「さ、早く帰りましょう」  繋がれた手に引かれるままに、男の目的地へと向かった。  到着したのは、中心部から少し外れた場所にあるマンションだった。 「もうすぐ、来ると思うんで」  時計を確認した男は、リビングに置かれたソファーに座るよう促してくる。  誰かを待っているような男の素振りに、ソファーに腰を下ろしつつ、問いかける。 「借金の債権、お前に移ったんじゃねぇの?」  言葉に瞳を向けた男は、ゆったりとした動きで、床に座った。 「俺じゃないっすよ。郭さん……、〝清白 郭遥〞。知ってますよね?」  再び浮上した郭遥の名に、喜びと焦りが混濁した。  完全なる形で発せられたその名は、影がちらつく程度だった先程よりも、格段に現実味を帯びる。  やはり、黒藤が言っていた〝坊っちゃん〞という呼称は、郭遥だったのだ。  少し考えれば、わかるコトだ。  スズシロには、比留間という後ろ楯がある。  裏で幅を利かせている比留間と表のトップ企業スズシロが繋がっているのは、公然の秘密。  この柄の悪い男を比留間の人間だと推測すれば、合点もいく。  洗面所の鏡に映っていた、くたびれた自分の姿が脳裏を過る。  歳を重ね、威厳と男らしさを身につけた郭遥に対し、オレは若さも、…清らかさも、失った。

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