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第114話 雨が降れば
「ミサさん」
大人しくしていた空 が、物悲しげに俺の名を呼んだ。
「ぁあ。ごめんね、いつものでいい?」
楽しくも嬉しくもないが、にこりと微笑みを作って見せる。
明琉を急かし、店から出ていく直の後ろ姿を無意識に眺めていた俺にかかった空の声。
いつものでいいかと笑顔で問う俺に、空は眉尻を下げた残念そうな表情を見せた。
「なに?」
空を落ち込ませるようなコトを言ったつもりも、したつもりもない俺は、首を捻るしかなかった。
「俺の大好きな人に、そんな顔させるのなんか癪……」
空の顔がまた、むすりと歪む。
「オジサンを揶揄うもんじゃないよ」
空が好んで飲んでいるシャンディガフを作りながら、軽く笑ってやる。
空と俺の年の差は、一回りだ。
12歳も上の俺は、空から見れば立派なオジサンに分類されるコトだろう。
「オジサンだなんて思ったコトないよ」
すっとグラスを差し出す俺の手の甲を、空の指先が擽った。
空の瞳は、自分の指先を見詰めていた。
「珠吏ちゃんも、オバサンだなんて思ったコトないしね。……血の繋がりでいったら、伯母さんだけど、呼んだら暫く口利いてもらえなかったし」
その時のコトを思い出したかのように、くすりと笑う空。
「レディは、身も心も若いからね」
俺とは違うと暗に示す。
「ミサさんだって、充分若いよ。……若いっていうより、年相応の色気、かな。オレが好きなのは、ね」
手許から、するりと上がった空の瞳が、俺の心を撃ち抜こうと試みる。
「どんな口説き文句並べられても、俺は靡かないよ。セックスの相手ならしてあげるけど」
グラスと空の指先に挟まれていた手を引き抜き、逆に握り返した。
きゅっと掴んだ空の手を、これみよがしに親指の腹で、撫でてやる。
「身体だけなら、いらないよ」
空は、するりと俺の手の中から逃げていった。
「俺が欲しいのは、ミサさんの感情だからね。……でも、きっとそれはもらえないんだろうなとは思ってる」
困ったように眉尻を下げ、情けない笑顔を浮かべた空は、言葉を繋いだ。
「でもさ。俺の感情は俺のもんで、ミサさんにもこの〝好き〞って気持ちを消す権利ないよね。っていうことは、好きでいるコトは自由、だよね? …俺は、それでいいんだよね。……会えたら嬉しい、話せたら楽しい、瞳に映れたら幸せなんだ」
心底、幸せそうな笑みを浮かべ紡がれた空の言葉を俺は、にべもなく切り捨てる。
「希望も期待もないなら、〝好き〞は持続しないよ」
手に入れてしまった欲しいものへの執着は、日を重ねるごとに濃度は薄まるもの。
それは、手に入らないからこそ欲しくなる。
だけど微塵の可能性もない恋は、辛さに潰され消えてしまう。
あの時、ヤっとけばよかったと悶々とした後悔だけが残るんだ……。
「そんなことないよ。俺はずっと、ミサさん一筋でいる自信しかないから」
すっと立ち上がった空の手が伸び、俺の頭を柔らかく撫でた。
「この手は、ミサさんのもので、ミサさん以外を撫でたりしないよ」
鳥の羽1枚分の重さもない俺の愛情は、雲のようにふわふわと軽いものだと思っていた。
だけど、その本体はヘドロのように重く粘っこい泥で。
俺は、空の心に巣食う泥色の雨雲。
空は、俺の心を覆う真っ白な綿雲。
真っ白な綿飴のような空のこの真っ直ぐな心も、一皮剥けば、とろりとした水飴のように絡みつくもので。
一頻り雨が降れば、2人の心も晴れるのかな……?
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