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2-1 波
「はい」
波は手を上げた。注目が集まる。いつものことなので、さして気にならない。
二学期に入って、初めての文化委員会の冒頭だった。
担当教師から役員への立候補を募る言葉を聞いて、資料室にいた文化委員の誰もがうつむいたりよそを向いたりして視線をそらした。そ知らぬ顔をして、誰かが何かの反応をするまでじっと押し黙っている。
そういう雰囲気が、波はすこぶる嫌いだった。時間の無駄でしかない。だから、誰も挙手しない場合はいつも、波が手を上げた。
クラス委員だってそうだ。それで、教室の中の空気が一気にゆるむ。それが毎回続いていると、いつのまにか当たり前になって、どうせ波がやるのだろうと思われる。おかげでずっとクラス委員を任されている。今回、文化委員の兼任を教師に頼まれたのもその延長だった。
それが不満なわけではない。委員の用事をこなすのは嫌いではない。それなりにやりがいもある。性に合っているようにも思う。
ただ、波と違って他の役員、副委員長だの書記だのという役についた生徒はたいてい嫌々だった。だからやる気がないし、真面目にやらない。そういう生徒と一緒に何かをするのは面倒なことこのうえなかった。
ところが、今回は違った。
「はい」
と、自分とは違う声がした。驚いて目を向けると、斜め後方で手を上げている生徒がいる。目が合うと、彼は目くばせするように笑ってみせた。
あの人だ。
波は、気づかれないようにそっと息をのんだ。
「おれ、渡利緑。短い間だけどよろしく」
委員会終了後、そう、緑は丁寧にあいさつをした。よろしく、と波も返した。書記の二人は運動部に所属する二年生で、こちらは教師に直接指名され、渋々了承したという経緯だったから、波は最初から彼らをあてにするつもりはなかった。
クラス委員なんかやっているわりに、波は基本的に人と接するのが苦手だった。
なまじ顔立ちが整っているばっかりに、小さいころから目立ってしまってなかなか友だちとしての関係が築けない。男子からは女みたいだとからかわれたりいじめられたり、女子からは人形みたいに扱われたりやっかまれたりする。
見た目に反して気性は穏やかではなく、周囲の悪気に反発して強い言いようばかりしていたから、孤立するほどではないものの、気安い友人は少なかった。
緑は、最初から波に対して何の先入観も持っていなかった。目を見ればわかる。言葉や、態度で知れる。いたって普通だった。普通の同級生のように接した。
想像したとおりだ、と波は感心した。
波が、緑のことを認識したのはこの文化委員会が初めてではない。
一度目は、一年ほど前のこと。放課後、学級日誌を職員室へ届けた帰り、二階の廊下からなにげなく見下ろした自転車置き場で自転車が将棋倒しになっていた。倒した張本人らしき生徒が一人で起こしていたところへ、通りすがった生徒がためらいなく近づき、一緒に元に戻していった。二人は別に友だちという雰囲気ではなさそうだった。その証拠に、すべて元通りになった後はあっさりと離れていった。
二度目は、食堂で見かけたときのこと。ゴミ箱のすぐそばに、プリントをまるめたようなゴミが落ちていた。周囲はざわついて、生徒はたくさんいたのに誰も拾わない。波は手を空けるために持っていたトレイをどこかへ置こうとした。すると、誰かが流れるような動作ですうっと手を伸ばし、ゴミを拾ってゴミ箱に入れた。誰も気に留めない、自然な動きだった。
どちらも、同じ人だった。それで、すっかり覚えてしまった。
以来、波はその人を見かけるたび、目で追った。
だから、文化委員会の資料室に入った最初から、すぐに見つけていた。
その、緑が副委員長になったことは、波にとって想像以上に、嬉しいことだったのである。
「あっ、波ちゃんッ! まさか文化委員だったの?」
委員会終わりの緑をひやかしに林藤がやってきたのは、まったくもって想定外だった。
「え、渡利くん、こいつと友だち?」
「委員長、林藤のこと知ってるの?」
「知ってる、っつーか」
「えー、波がいるなら俺が文化委員になれば良かったー。緑ー、今から変わってやろうか?」
「おまえはいらねえっつうの。渡利くん、やめないでくれよな」
真剣なまなざしでそう言う波に、窓枠から身を乗り出すようにして林藤が顔を近づけてくる。
「波チャン、渡利くんなんて丁寧に呼ぶ必要ないぜ。緑でいいって。緑で」
「おまえが言うことじゃねえだろ」
そんな二人の言い合いを目の当たりにして、緑は声をたてて笑った。
「仲いいんだな、二人」
「……よくないし」
「でも、いいよ、委員長。おれのことは、緑で」
「……え?」
「そうそう。波ちゃんも緑って呼びな。緑って感じだろ、こいつ」
林藤にも重ねて言われ、波はじゃあ、とうなずいた。
「じゃあ、緑、でいい?」
「うん、よろしくな」
まだ笑みの残る顔で言われて、本当はそのとき、波も言いたかった。
委員長なんていう堅苦しい言い方ではなく、自分のことも、波、と呼んでほしいと。
ただ、そんなことを今まで言ったことがなかったから、とっさに言葉が出てこなかった。一度機会を逃すと、あらためて口に出すのは難しい。だから、いつかどこかのタイミングで言おうとは、ずっと思っていたのだ。
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