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 文化祭の一日目は、滞りなく過ぎた。  忙しさにまぎれて、緑のことを考える余裕もなかった。終始、何かしら用事があったし、顔を合わせても雑談するヒマさえない。  とはいっても、この日はまだ校内だけの開催で、明日の日曜になれば一般客も押し寄せる。混雑は比ではないだろう。いい予行演習ともいえる。  波は、すべてのプログラムが終わった体育館の舞台わきで、段取りの悪かった箇所を入念にチェックした。明日は来賓も多く来る。失敗するわけにはいかない。  生徒会との打ち合わせを終えて、いつもの文化委員の作業用にあてがわれた資料室へ戻ると、誰かがいた。窓から差し込む西日の逆光で、顔はよく見えない。けれども、その影だけで波は、それが緑であることがわかった。 「お疲れ」  声をかけられて、立ちすくむ。 「……波?」 「あ、うん。お疲れ」  近寄ると、緑は複雑な表情をしていた。怒っているような、悲しそうな、なんとも言いがたい顔だった。 「……どうかしたの?」 「……いや。疲れたな」 「……うん」  うまく会話が続かない。以前なら、何も考えなくても言葉はすぐに出た。緑と話すのは心地よかった。  ――今は、息苦しいだけだ。  長テーブルの上は、パンフレットの資料や配布ペーパーの残りなどが乱雑に散らばっている。手持ち無沙汰になり、それらを片付け始めた。本当はもう、特に用事はない。帰るのは自由だ。しかし、すぐにこの場を離れるのは気がひけた。 「緑は、まだ帰らないの?」 「うん。林藤がまだなんだ。待ってないと怒るから」 「へえ」 「波は?」  また、だ。  名を呼ばれて、心臓を掴まれたように身がすくむ。波は動揺を押し隠して、平静を装った。 「僕は、今日はもう終わり。今から帰るところ」 「……ふうん」  一緒に帰ろう、とは言えなかった。なぜだろう、と自分でも思う。緑は、以前と変わらぬ態度で接してくれている。なのに、波は前のようにはふるまえない。  また、言葉を見失った。話が続かない。校内放送が教師の呼び出しを早口で告げて、余韻なく切れた。  沈黙に耐えかねたのは、波だった。 「か、彼女とはうまくいってる?」  言った直後に、呼び声が聞こえた。 「みっどりー! お待たっせー」  窓ガラスの向こう側に、林藤の姿が近づいてくる。波を見つけて、ぶんぶんと手を振っている。 「……いってるよ」  緑の声がした。  そっと差し出すような、優しい声だった。 「だから、安心して」 「え?」  振り返ると、緑が踵を返して教室を出てゆくところだった。  安心? 僕が?  どうして?  疑問が次から次へとわいては、消えた。  文化祭の二日目が明けた。私服姿の人たちが、いたるところを闊歩している。  見慣れないその光景は、生徒たちの高揚を煽る。普段は男ばかりで色気も素っ気もないむさ苦しい校内が、やたらと活気に満ちている。そのにぎわいを楽しむ余裕もなく、波は走り回っていた。  あちこちで、私服の女の子を連れた制服姿を見つける。彼女を文化祭に呼んだ生徒たちなのだろう。それを見るたび、波の心中はざわめいた。  緑も、彼女を呼んでるのだろうか。どこかで、緑と彼女が並んでいる光景を目にするのだろうか。  胸が、ざわざわと騒ぐ。どういうことだろう。  どうして僕は、緑が彼女を作ることに苛立っているのだろう。  ――たった二週間前、自分を好きだと言ったのに。  おかしいのは、緑のほうだ。ゲイでもないのに、男が好きだなんてどうかしている。だから、今の緑はおかしくない。変なのは、自分のほうだ。  いつしか、頭の中でいっぱいになった思いは忙殺されずにとどまり続けた。  もう認めざるをえなかった。緑に彼女がいるという事実が、気にかかってしょうがない。  けれどももう遅い。今さらそれに気づいたところで、緑の気持ちはすでに波から離れてしまっている。そう仕向けたのは自分だった。波が、緑を撥ねつけたのだ。  各クラスの屋台が設置された中庭は、多くの人で混雑していた。反して、マイナーな部室の並ぶ別棟のある裏庭は、しん、としている。校門わきでパフォーマンスをしている科学部の、無人の部室に入り込み、波は一呼吸おいた。各イベントの進行状況は滞りなかった。今のところ、トラブルもない。急な呼び出しがない限り、一休みできるところだった。  扉を閉めると、力が抜けた。その場に座り込んでしまう。今まで張り詰めていた糸が、ふつりと切れてしまったみたいだ。  そして、(こら)えきれなくなったのは足の力だけではなかった。気づけば、呼吸がつまり、こみ上げてきたものが堰をきったようにあふれてきた。 「う……」  膝を抱えて、口元を押さえる。  自分が何をしているのかわからない。まだ文化祭は終わっていないのに、なぜこんなところで泣いているのだろう。  波の意思に反して、涙はとめどなくこぼれた。理由など、考えるだけで億劫だ。波は扉にもたれかかり、頬を雫が伝うに任せた。  これでいい。これが普通なのだ。  今、波を支配する、自分でも理解できない気持ちなど、捨て去るほうが無難に決まっている。このまま忘れてしまえばいい。何も、なかったことにするのだ。  ――何も、なかったことに?  できるわけなどなかった。抱いた感情を、きれいさっぱり忘れ去ることは不可能だ。  それに、と波は思う。  苦しくて、切なくて、辛い。  けれども、悪くない。  目を閉じて、深く息を吸えば、緑の顔が浮かんでくる。  それはひどく、心地のよいものだった。  これが人を好きになる、ということなのだとしたら、ゲイだろうがゲイでなかろうが、かまわないように思う。男とか、女とか。普通とか、普通じゃないとか。  それがいったい、どうしたっていうんだろう。 「……緑」  つぶやいたとき、ガチャリとノブが回り、体重を預けていた扉が後ろへと開いた。 「わッ」  体勢を崩して仰向けに転がった。上から誰かが見下ろしている。 「あれ、波チャン」  林藤だった。一人だ。白衣のまま、両手に荷物を抱えている。 「何して……」  とっさのことに、顔を隠すのが遅れた。波は飛び起きて、それきり林藤の顔を見ずに走り出した。いろいろ質問されても、何をどう答えてよいのか、波にさえわからなかったからだった。

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