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3 林藤

 林藤が波に出会ったのは、ほんの偶然だった。  高校に入学してからそう間もない頃、覚悟を決めていたわけでもなんでもなく、話の流れで、いわゆる好きな女の子のタイプとかそういったよくある話をしている中で、俺が好きなの男だし、と同級生に打ち明けた。場所は確か、食堂だった。  それまで幸いなことに、中学の友人たちは小学校からのつき合いで林藤のことをよく知っていて、俺ってもしかしてもしかしなくても男のほうが好きかもしんない、などと言ったときも、さして驚かずに受け入れてくれた。  だから少々甘く見ていたむきもあったのかもしれない。  まだつき合いの浅い同級生の顔がひきつったのを、林藤は見逃さなかった。  あ、面倒なことになりそう。  率直にそう思った。 「いや、冗談でしょ」  一人がそう言うと、残りの二人もそれに倣うように続ける。 「マジで引くわー」 「ちょっと勘弁してくんない」  冗談に決まってるじゃん。  そんな言葉を待っている彼らに、それでも林藤は訂正する気になれなかった。  だって、隠したり嘘をつくのはとても面倒だ。 「つーかおまえ、俺らのことそんな目で見てたのかよ」  そう言ったのは、テーブルを挟んで林藤の正面に座っていた島田だ。 「そんな目ってなんだよ」 「だからさ、エロい目っていうかさあ」  ああ、ますます面倒だ。  どう返したらよいものか、林藤が迷っているわずかな隙に、島田の後方を通りがかった影が突然言った。 「へえ、島田ってそんな目で女子のこと見てたのか」  その場にいた、林藤を含む全員が思わず声の主を見上げた。  あ、けっこう美人。林藤が最初に抱いたのはそんな感想だ。  細身で頼りなげな風貌なのに、意志の強そうな目をしている。 「え? 藤原?」  何事かと振り返った島田が、彼の名を口にした。藤原、と呼ばれた彼は、島田に向けて早口で告げた。 「伝言。1B のリレーメンバー表まだ出てないって。杉下先生から。そっちの学級委員に言っといて」 「おまえまた学級委員やってんの?」 「他にやるやつがいなかったんだからしょうがないだろ」  それから、彼はちらりと林藤のほうへ視線を向けて、また島田へと戻した。 「それより、おまえが中学のときクラスの女子を変な目で見てたとはね。知らなかったよ」 「は? なんで俺が」 「さっき言ってたじゃん」 「それはこいつの話。こいつが、男が好きっていうからさ」 「男が好きってだけでクラスの男子をエロい目で見てるっていうんなら、女が好きなおまえはクラスの女子全員をエロい目で見てたってことじゃん」 「はあ? 違うって。こいつと俺は違うって」 「違うの?」  と、彼は突然、唖然として二人の会話を眺めていた林藤に訊いた。 「へ? 知らね」  反射的に答える。  島田がなぜか少し、あわてて言う。 「知らねーっておまえ、ゲイなんだろ」 「だって俺、ゲイの知り合いとかいねーし、ゲイのことなんて知らねーし、俺は別に男なら誰でもいいってわけじゃねーし」 「え、そうなの?」 「そうだろ、普通」 「え、普通なの?」 「おまえだって女なら誰でもいいわけじゃねえだろ? え、誰でもいいの?」 「な、なわけないだろ」  ますますあわてる島田をよそに、彼は頭上から林藤に問いかけた。 「なあ、名前、なんての?」 「俺?」  こくりと、彼がうなずく。一瞬伏せた目の、長い睫毛に目を奪われる。 「……林藤」 「林藤な。……つまり、好きな相手が男だろうが女だろうが、林藤は林藤。そういうことなんだろ。今どき偏見とか、くだらねーこと言ってんじゃねえっつーの」  そこで、林藤はようやく気づいた。彼は通りすがりに、林藤を助けてくれたのだ。それが成功したかどうかはわからないけれど、少なくともそうしようとしてくれた。  その場にいた全員がなんとなく、口をつぐんでいた。変わりかけた流れの、どちらへ流されればいいのか決めかねているように。  林藤は皆を見下ろすように立つ彼の、横顔に見惚れていた。  白い頬、すうっと伸びた鼻梁、閉じられた薄い唇。  そして何より、迷いのない表情。  ああ、これは間違いない。  そう確信して、林藤は立ち上がる。 「天使、舞い降りた」 「え?」  言葉を向けられた彼が、戸惑った顔をする。 「惚れた」 「は?」 「この胸の高鳴り。恋だ。俺、たった今、恋に落ちた!」  林藤は一人で興奮していて、周りはなんだかウケている。  何言ってんのこいつ。ちょっと面白いんだけど。  そんな言葉を林藤は一向に意に介さない。同級生のことなどもう、どうでも良かった。ハブにされようが何を言われようがかまわない。  林藤は身を乗り出すようにして、島田の後ろに立つ彼に訴える。 「ね、俺、どう? 試してみない?」 「は? 悪いけど僕は全然興味ないし」 「そんなこと言わずにさ、お友達からお願いしようよ」 「勝手にしてろよ。島田、伝言頼んだからな」 「おー。おまえもお友達になってやれよー」 「ならねえっての」  背を向けながらそう言い残し、そっけなく天使は去っていく。  後ろ姿を見送りながら、林藤は島田に詰め寄った。 「あいつ名前、藤原、何? どこのクラス? どういう知り合い?」 「クラスは知らねーなあ。同じ中学だったんだよ。名前は」  藤原波。  それからずっと、林藤の視線の先には波がいる。

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