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 いつもの道を、林藤は歩いていた。  科学部の部室から、波のいる資料室まで。  二学期になって文化委員になった緑が委員会に出るというので冷やかしに行ったら、そこに波がいた。それから委員会があるたびに、林藤は毎回部室から資料室まで芝生の上を駆けていくのが習慣になった。委員長と副委員長として資料室に居残っている波と緑と、くだらない掛け合いをするのが楽しみだったからだ。  もちろん、波と話せるからに違いなかったが、そこにいるときの波は普段と少し違っていて、その違っている波を見るのが林藤は好きだった。  緑といるときの波は、とても楽しそうだったのだ。  文化祭の最終日、夕刻が近づいて、校内に人の姿はまばらだった。科学部の出し物の後片付けを終えた林藤は、教室に置いてある荷物を取って帰ればよかった。  開け放された窓の向こうに、波がいた。責任感の強い波は、最後に必ず資料室を片付けていくだろうと思っていた。案の定、一人で(ほうき)をかけている。 「はぁい、スィートハニー」  窓枠に肘をかけ、林藤は波に声をかけた。  近づいてくる姿に気づいていたのだろうか、波は林藤のほうを見ずに答える。 「……ああ」 「一人でやってんの? 緑は?」 「もうすぐ、来るんじゃないかな」  本当は、誰にも会いたくなかったに違いない、と林藤は思う。でも、いつも口ではキツイことを言いながら、本当は波はとても優しい。今も、追い払おうとはしない。うつむきかげんで整然と箒を動かしている。 「なーみチャン」 「……んだよ」 「緑が、好き?」  波は手を止め、ようやく林藤のほうを振り返った。 「……何、言って」 「泣いてたのは、緑のせい?」  一瞬、息をのんだ波は、ゆっくり林藤から視線を外した。 「……なんで」 「わかるよ、そりゃ」  林藤は思わず苦笑する。 「俺がどんだけ波のこと見てきたと思ってんの。ずっと見てたんだぜ。波が好きな食堂のメニューも、得意な教科も知ってるし、どういうときに笑うか、いつもどこを、見てるかも」 「……どこ」 「緑が、好きなんだろ?」  波はあきらめたように、箒の柄のてっぺんに額をつけた。 「……ごめん」 「なんで波が謝るの」 「だって、おまえに気づかせるなんて。最低だな、僕」  こういうときでも、林藤を気づかってくれる。徹頭徹尾、波はやはり、波だ。 「俺はさ、波が大好きなんだよ」  何とかして、この気持ちが伝わるようにと林藤は心を込める。 「もちろん、波が俺のものになってくれたらいいなあとは思うけど、それよりももっと、人として、存在として、大事なんだよ」  ずっと、大事だった。大切にしたかった。できればこの手で。  でも何より。  波には笑っていてほしい。 「俺はさ、波チャン」  波が顔を上げて、林藤を見た。 「波が、幸せならいいのよ」  その声音がひどく優しかったせいか、波が泣き出しそうな顔をした。  それでことさら、林藤は穏やかに話しかけた。  俺が波を泣かせてどうするっての。 「緑はいいやつだ。波が好きになるのもわかるよ。俺もあいつ好きだし。あ、俺の場合は友達としてな? 俺は波チャンひとすじだからな?」  波は何か言いたそうにして、でも言葉にならないのか、よけい辛そうな顔になる。 「こらえてるのはさ、しんどいだろ。吐き出しちゃえよ」 「……何を」 「今の気持ち。緑にさ」 「ッそんなこと、できるわけない」 「抱え込んでるのは体に悪いぜ。波、ちょっと痩せたんじゃないの」  無言は肯定の証だった。林藤は小さく息をつく。 「大丈夫だよ。緑なら受け止めてくれる。知ってるだろ、波も。あいつがどういうやつか。仮に、どんな答えが返ってきたって、このまましんどい思いをしてるよりいい。と、俺は思うんだけどね」 「……うん。そうだな。そうかもしれない」  うつむいて、波は小さくうなずいた。それから、ゆっくりと見上げるようにして林藤へと顔を向けた。 「林藤、ごめんな」 「また謝る。そういうときはありがとうって言うんだぜ。いろんな文献にそう書いてあるでしょ」 「文献って何」  ふっ、と口元を緩ませた波に、ようやく林藤も肩の力を抜く。  やっと笑った。 「あ、でも俺の胸はいつでもちゃんと空けとくからね。波がいつでも飛び込んでこれるように」 「だから、飛び込まねーって」 「つれないなあ、あいかわらず」  はは、と笑って、林藤は窓から離れる。  潮時だ。これ以上、波といたら、本当に自分のものにしたくなる。 「じゃ、またな」 「うん」  遠ざかってゆく林藤を追うように、波は窓際へ歩みよった。 「林藤」 「ん?」 「ありがとう」  林藤は振り返り、両手を伸ばして大きく手を振った。 「波、愛してるよぅー」 「ばーか」  そう言って笑った波の顔を、たぶんずっと忘れない。  忘れられないだろう、と林藤は思った。

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