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フクロウとカミソリ王(2)

「水野さん、そこ、そこです」 「了解。テープください」  佑は脚立の上でテープを受け取ると、押さえていた掲示物がずれないよう注意深く留めていった。掲示物には〈ノートパソコンは閉じて移動〉と極太のフォントで記されている。  前年度からの残務の処理や、人事異動による怒涛のあれこれがようやく落ち着きをみせたかという、ゴールデンウィーク明け。  法人向けに携帯端末を販売する企業の総務部に勤務する佑は、朝から社内の剥がれ落ちた掲示物の修繕に追われていた。指示を出していたのは、同じ総務部の後輩女性社員、泉だ。  運良く成長企業の総務職に就き、早くも勤続九年目、今年で三十一になる。一応「主任」という肩書きを持つものの、なかなか増員されない総務部は万年人手不足で、自らなんでもやる。  掲示物にイガイガした吹き出しをつけて「キケン!」と書いたのも佑なら、破けないようラミネートしたのも佑だ。  同期は異動を願い出たり転職したり、もっと稼げる自分になるべく羽ばたいていったりしたが、佑にそのつもりはまったくなかった。  このまま定年まで平穏に職務に励み、ゆくゆくは「社内のなんかよくわからないことは取り敢えずあの人に訊け」という、森の物知りフクロウおじさんみたいなポジションを目指している。   そんな自分のことを、泉や他の総務部のメンバーが「平熱三十五度」と呼んでいることを、佑は知っていた。よくわからないが「覇気がない」という意味だろう。憤るどころか「うまいこと言うなあ」と思ってしまうのだから、まごうことなき三十五度っぷりだ。  泉は長い黒髪を払うと、未だ〈美少女〉と呼んでも差し支えない可愛らしい顔を不意に歪めた。 「しっかし、いつまでこんなものを貼ればいいんですかね。ここは小学校かっつーの」  出たぞ、と思いながら佑は脚立をたたむ。小柄な泉の〈美少女〉が外面でしかないことは、総務部ならみんな知っていた。  なんでこんなものを貼って歩いているのか。  各種会議やミーティングの際に自席からノートパソコンを開けたまま移動し、どこかにぶつけて破損する輩が実際にいるからだ。それも結構な数。  開いたままキーボードの上に筆記具を乗せて運ぶなんてのはまだ可愛いほうで、ひどいのになると、広げたキーボード側を片手で ひっつかんだりする。  そうしてどこかにぶつけて傷ついた液晶画面を見せては、こうのたまうのだ。 「なにもしてないのに映らなくなった」と。 「パソコン広げてせかせか歩いてたら、仕事してますアピールになるとでも思ってんですかね?」  泉の愚痴は留まるところを知らない。 「特に営業! あいつら自分たちだけが仕事してると思ってますよね。俺が作ってきてやった売り上げでおまえらは社内にいられていいなーって。備品の補充だって、やってもらって当たり前って顔してるし。総務はお母さんじゃねえっつうの」 「泉ちゃん、声が大きい」  たしなめようとしたとき、泉の表情が「給湯室に放置された誰のものかわからない弁当箱」を見るかのごとく険しくなった。 「……噂をすれば」  階段室につながる鉄扉が開いて、誰かが階下から上がってきた。もちろんエレベーターはある。だが、タイミングが悪いとなかなかやってこない。待つのがもどかしい社員は階段を使うことになる。  現れたのは、引き締まった長身に細身のスーツを着こなした若手だ。 「……カミソリ王」  カミソリ王こと、等々力理央は二十五歳。この春この地方支社に異動してきた、営業部期待の若手だ。  名前もきらきらなら経歴もきらきら、有名私立一貫校を出て、有名大に進学、東京本社でめざましい活躍をしていた、いわゆる港区男子。今回の異動は将来幹部になることを見据えての武者修行だと聞いている。  百八十はゆうにある長身に、眼光鋭い切れ長の目。上司だろうとなんだろうと、無駄があったらがんがん切り込む。大企業相手に、徹底したコストメリットで勝負し、ついたあだ名がカミソリ理央。それを縮めて「カミソリ王」。  ――おっと。  佑は理央から目をそらした。  正直に言うと、理央は佑好みの顔だった。  さすが、転勤前から地方支社にまで噂が届いていただけのことはある。  だからこそ余計に、あまり関わり合いになるまいと佑は心に決めていた。なにしろ佑の目標は森のフクロウだ。社内でうっかり恋に落ちてしまったら――穏やかなフクロウ道には、障害でしかない。  ――そろそろいいかな。  不自然にならない間合いを計って面を上げたとき、理央はまだそこにいた。  刹那、目が合う。  瞳の奥から発せられる光。佑は、いつかテレビで見た、ごつごつした石の隙間から覗く水晶を思い出した。  不意に、理央はその目を眇める。そこに攻撃的とも取れる色を見た気がして、佑はまたたいた。  ――なんだ?  自分と理央に、直接の接点はない。  むしろ、わざわざ営業部まで理央を見物に行く連中を諫める立場だ。睨みつけられるような心当たりなんて。  あるいは泉の言うとおり、彼もまた〈総務は楽そうでいい〉とでも感じたんだろうか。  佑が考えている間に、理央はついっと視線をそらし、会議室の方へと足早に去って行った。  さきほど佑が張り直した注意文の前を、開いたノートパソコン片手持ちで。 「……いっそすがすがしい」 「じゃないですよ水野さん! あとで注意喚起の全社メール出してやる……! 誰のことか微妙にわかる伏せ字で!」  泉の怒りは留まるところを知らない。ついに、 「断言してもいい。ああいう奴は、SEXが下手!!」  と、とんでもないことを言い出した。

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