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ある日、落ちてくる(1)

   昨年から社内で始まった取り組みに「ウォーキング大会」がある。  なんのことはない。そのアプリの開発に会社が関わっているという話だ。よって社員は強制参加。データは取れるし、部署を超えてチームを結成することで、コミュニケーションのきっかけにもなる……と上層部は思っているらしい。     佑は、総務部の仕事として、各チームの写真をサイトに載せなければならない。「仲間と共に頑張ります!」等の白々しいコメントと一緒に。今日はその撮影日だった。  同じチームに振り分けられた泉と連れ立って、集合場所である会議室へと向かう。ドアを開けたとたん、泉が「やった。〈人間三周目〉」と呟いた。  そこにいたのは営業課長の緒方だった。年齢は四十代前半。営業部にありがちなギラギラしたところがなく、それでいて成績はいい。その上佑たち事務方への気配りも忘れないというのがあだ名の由来だった。  誰かが本人にそう伝えても「俺がこの会社に入ったころはまだ事務所も狭くて、その頃から一緒にやってきた仲間だからさ」などと謙遜する。実に爽やか。実に謙虚。  正直、そんな緒方のことを「いいな」と思ったこともある。  しかし、人間三周目の優良物件が売れ残っているわけもない。佑が入社したとき緒方はすでに既婚者だったから、それは本当に単純に「いいな」という憧れ程度の感慨で終わっている。  以前、緒方の家でも子供が拾ってきた仔猫を突然飼うことになったことがある。そのとき相談に乗った縁で、フロアが別になった今もたまに秘蔵愛猫写真を見せ合う仲だ。  その場に泉も混ざることがあるから、気心の知れたメンバーに声が弾むのも無理はない。  が、声を弾ませながらドアを広く開け、緒方の隣に座る人物が目に入るや否や、泉の放つ気配がどんよりと重くなるのを佑は感じた。  不審に思って覗き込む。緒方の隣に座っていたのは、不機嫌を絵に描いたような仏頂面の理央だった。  ……あちゃー。  偏りがないよう、年齢と性別がだいたいバランス良くなるよう割り振られているはずだが、運が悪い。 「泉ちゃん、顔」と小声で囁いたとき、人間三周目緒方が笑顔で立ち上がった。 「水野、泉、お疲れさん」 「お疲れ様です」  役職付きに先に挨拶されてしまい、慌てて頭を下げる。緒方はもちろんそんなことなど気にも留めない様子で、笑いかけてきた。 「会社が広くなると顔見るのも久し振りだな。こねぎちゃん元気?」 「おかげさまで。もずくちゃんはお元気ですか?」 「元気元気。最近ちょと太り気味だよ。飼い主に似たかなー。ほら」  緒方がスマホを取り出し、愛猫の写真を見せてくる。背伸びして隣から覗き込む泉のために、佑はより緒方に体を寄せた。 「ほえあ~」  泉がいつもの奇声を発する。こうなるともう、佑の存在も忘れて猫まっしぐらだ。  佑が苦笑して緒方の隣を譲ったそのとき、ぼそりと「いいねえ、総務は暇そうで」と誰かの呟きが耳に入った。  幸い、もずくちゃんに夢中の泉と緒方の耳には届いていないようだ。  上層部の決めたことに不満がある場合、それを伝えて歩く総務はサンドバッグになりがちだ。「おい総務どうなってんだ」「総務ちゃんと段取りしとけよ」と、個人名さえ認識されない。そこに人格はなく、ただ働きだけを要求される。まさに「お母さん」。  しかしそれもまた自分たちの仕事と飲み込めなければ、森のフクロウは目指せない。  佑が内心げんなりとしつつも、無難な笑顔を装着しようとしたときだった。 「――全員揃ったみたいなんで、さっさと済ませてもらっていいですか」  その瞬間、がくんと室温が下がったような気がした。節電の折柄、空調はまだ入れてもいないのに。  広げたノートパソコンから目も上げずに言い放つのは、理央。 「…………」  隣で泉がすっと目をすがめる。戦闘モードだ。佑はすかさず割って入った。 「今日中に全チーム撮影しないといけないんで、ご協力いただけるの助かります!」  なにか言いたげな泉を急かして壁の前にメンバーを集め、どうにかこうにか集合写真を撮った。 「ありがとうございましたー!」  にっこり笑顔を振りまいて、会議室をあとにする。エレベーターホールに向かうと、ちょうど全機行ってしまったあとだった。 「なんなんすかあいつ! 水野さんも、なんであそこで笑ってすましちゃうんです~?」  案の定、泉が不満も露わに後を追って来る。なんでってそれは、衝突するより楽だからだ。あそこでむきになっても誰も得をしない。    それに、あれって。  泉は、理央の前に誰かが放った不穏な言葉を知らない。  もしかして、かばってくれた?  そう考えて、以前注意喚起の前で睨みつけられた冷たい眼差しを思い出した。  ――ないな。  きっと自分たちにはなんの関係もなく、本当にさっさと終わらせて欲しかったのだろう。 「やっぱりあいつ、絶対SEXひとりよがりですよ! SEXが! 下手!」 「まあまあ、今日中に撮っちゃって加工までしなきゃいけないのは確かだしさ。じゃ、おれ他のフロアの撮影行ってくるから」  泉をそこに残し、佑は階段室に回る。  泉の憤りもわかるが、ああいうとき空気を読まずに発言できるのも、ひとつの才能だと佑は思う。  おれもあれくらいはっきりものが言えたら、目指すゴールは森のフクロウじゃなかっただろうか。別れのときも、本当の気持ちを――  そんなことを考えながら踊り場をひとつ通過したとき、上の階の扉が開いた音がした。  誰か他にも急いでいる人がいるんだな――考えたとき、がつっとなにかがぶつかる固い音が耳に届いた。  ――え? 〈なにか〉が、佑の顔のすぐわきをかすめる。  なにか――広げたままのノートパソコンは階段を転がり落ち、広げているせいで予想外の跳ね方をして、一段下の踊り場の壁に激突するとやっと止まった。  一瞬の出来事に、身じろぎもできなかった。  毎日注意喚起はしていた。壊れたパソコンも見てきた。でもそれが自分の頭をかすめていったとなると、現実感がない。膝から下の感覚が不意に失せ、へなへなとしゃがみ込む。 「あの、」  駆け下りてきた誰かの固い声に面を上げる。そこにいたのは、さっきまで散々泉が憤っていた相手だ。 「……SEXが下手な人」 「は?」  不安げにこちらを覗き込んでいた理央の眼差しに、瞬時に怒りが乗った。  し ま つ た。

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