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試してみます?

「かんぱーい」  泉が紹興酒の小ぶりなグラスを掲げる。仕事中には耳にしたことのない、実に溌剌とした声の響きだ。  ノートパソコン落下事件から一日。緒方から「詫びの飲み会」の申し出があった。  当初、佑はやんわり辞退した。 「SEXが下手そう」なんて面と向かって言っちゃった相手からの謝罪って。  むしろ謝らなければならないのはこっちなのではなかろうか。  そう思ったからだ。  結局佑と緒方が話しているのを目ざとく見つけた泉に「いいですね。人の金で喰うメシ最高」と押し切られ、こうして開催と相成った。会場は会社近くの中華ダイニングだ。 「お疲れ。ほら、おまえも喰え」  緒方が、理央に名物の北京ダックを勧めている。理央は相変わらず仏頂面のまま、しかしどこか居心地の悪そうな様子だった。  緒方の言葉に強ばった表情から少しだけ緊張がほどけ、北京ダックに手を伸ばす。  それを見計らったように、緒方がにっと笑った。 「どうせおまえの支払いだし」  理央の手がぴたりと止まる。泉は嬉しそうに「すみませーん、店で一番いい紹興酒追加お願いしまーす」と店員に声をかけた。 「大丈夫ですよ、緒方さんの冗談だから」 「せっかく軽くびびらせてやろうと思ったのに、早々にネタバレするなよ水野~」 「念のためクーポンもダウンロードしておきました」  悪戯っぽく付け足すと、緒方はますます嬉しそうな顔をする。 「な、総務の連中って、ほんと細やかなんだよ。俺たちの手の届かないとこいろいろやってくれてるんだ。パソコンの手配だって、壊れたからちょっとそこの家電屋行って買ってきますってわけにはいかないんだぞ。小さい会社じゃないんだから」  緒方はそこで一旦言葉を切り、固まったままの理央の皿に、器用な手つきで北京ダックを取り分けてやる。 「あれで水野が怪我したらまず労災の申請で誰かに手間が発生するし、水野が休めばその間の仕事のしわ寄せが誰かに行く。そしたら、俺たちが出した急ぎの書類の処理が翌日にずれることもある。それ、どのくらい会社全体の生産性を落とす?」  緒方の言うことは正論だが、果たして社内の何人がそんな意識を持ってくれているものか。張り紙を無視しているのは、なにも理央だけではないのだ。 「まあ、もうその辺で。実際なんともなかったわけなんで」  生産性という現実的な言葉が刺さったのか、理央はうつむきがちに固く唇を引き結んでいる。そんな姿を見ると、佑の胸はちくちくと痛んだ。 『SEXが下手な人』  どう考えてもとびきりのセクハラ発言。  意図したことではないが、理央ばかりが一方的に責められる構図は、いたたまれないものだった。  しかし緒方や泉のいる前では詫びにくい。考えた末、今佑にできるのは、酒を勧めることくらいだった。 「さ、等々力くん、飲んで飲んで」  勧めてから、己の失態に気づく。 「あ、お酒大丈夫だった……?」  最近は一切飲まない若者も多いと聞く。無理に勧めたりすればアルハラだ。これも〈やってはいけません〉と注意喚起する側だというのに。 「等々力が飲めないなら俺がもらうよ」  人間三周めの緒方がすかさず助け船を出す。  ほっとして緒方に酌をしようとすると、意外にも「いただきます」と理央が割り込むようにグラスを差し出してきた。  この上緒方に助けられては、立つ瀬がないと思ったのかも知れない。佑は「どうぞ」と笑顔で理央のグラスに紹興酒を注いだ。  果たしてこのメンツで飲み会は盛り上がるのか。始まる前に感じていた佑の中の心配は、杞憂に終わった。  緒方は若かりし日の自分の失敗談を惜しみなく披露したし、泉は鋭い突っ込みの名手だ。佑はときどき適度な相槌を打ちながら、その恩恵に預かる。 「まだ今の社内システムが構築されてなかった頃、会議に使うデータが入ったCD、SSBOXに書類と一緒に入れちゃって」  SSBOXとは、書類を廃棄する箱だ。 「水野、助けてくれ! って総務に飛び込んで来たときにはびっくりしましたよ。緒方さんでもそんなミスするんだなあと。みんな可愛いって言ってましたよ」  自慢話は一際せず、失敗談ばかりするのは理央に聞かせるためなのだろうから、ここは少し大げさなくらいに乗っておく。 「可愛いってなあ……いやでも水野が落ち着いてすぐ業者に連絡とってくれたから、なんとか会議には間に合ったんだよな。本社からも人がくる日だったから、出せなかったらやばかった」 「えー、私だったら第一声で『は?』って言っちゃう。水野さんて菩薩? 菩薩なの?」  ほろ酔いの泉が訊ねてくる。 「怒ることもあるよ、もちろん。でも怒ったり焦ったりするのって、エネルギー使うからさ」  佑は一旦箸を置き、指を立てた。 「まず怒ったり焦ったりするのでエネルギー使う。で、次はそれを収めるのに使う。つまり二工程無駄になる。だったら、すっと作業に入ったほうが効率いいと思うんですよね」  なにしろ総務は「なんでもやってくれるお母さん」だから、余計な雑用が回ってくることはよくある。いちいち憤るよりさっさとやってしまったほうが結果的に害が少ない。それが勤続九年目にして佑が得た真理だった。  思えば元恋人との付き合いも、終盤はそんな諦めの境地の上に成り立っていた気がする。 「そんなに感情激しく動かすのが面倒くさいというか……」 「出たよ平熱三十五度」 「総務向きと言って」  だいたい、そのあだ名は一応本人には内緒のはずでは? もちろん酒の席でのその程度の失言を責めるつもりはない。緒方もからからと笑っている。 「水野ってほんといいよなそういうとこ」 「いいと言ってくれるあなたもいいですよ」――心の中でだけで佑はそう応じる。  緒方に対して恋愛感情はないが、感じのいい人間に褒められるのは誰だって嬉しい。疲れることもある恋愛より、むしろこのくらいの関係が最近ではもう有り難いくらいだ。  ああ、世の中の男がみんな緒方さんみたいな距離感だったらいいのにな。  笑みを浮かべながら非現実的なことを考えていると、理央が不意に立ち上がった。 「すみません、ちょっと」  トイレだろうか。泉がちょっと眉根を寄せている。せっかく盛り上がっている空気を読めということなのだろうが、佑にとってはふたりになるチャンスだ。「おれも」と告げてあとを追った。  トイレに追いつくと、理央は洗面台に両手をついてうなだれていた。 「大丈夫?」  飲み会で聞き役に徹すると、知らず知らずのうちにピッチが速くなってしまうものだ。理央は元々和気藹々と盛り上がるタイプでもなさそうだし、その分酒量が増えてしまったのだろう。詫びより先に介抱したほうが良さそうだ。 「飲み過ぎちゃった? 気がつかなくてごめんね。お水とか飲む?」  一旦戻って水をとって来よう。  踵を返したとき、理央がぼそりと呟いた言葉に引き留められた。 「――緒方さんと、ずいぶん仲がいいんですね」 「緒方さん?」  訊ね返すと、自分から訊ねておきながら、理央は固く唇を引き結んだ。どこか頑是無い子供のような表情だ。  酔っているのかもと思ったが、考えてみれば緒方は理央の上司。四月にやってきたばかりでまだ完全には打ち解けていないところで、他部署の自分とばかり親しげにされたら、面白くないのかもしれない。 「緒方さんわけへだてない人だから。大丈夫、この間はちょっと怒ってたけど、あれは失敗に対してであって、別にそれで等々力くんの評価下げるような人じゃないし」  そう告げると、理央の表情はほぐれるどころか少し強ばった気がした。  余計な一言だっただろうか。若い子のプライド逆に傷つけた?   激しく競い合うような仕事をしたことのない佑には、判断が難しい。 「等々力くんの仕事も、ちゃんと見てくれてると思うよ」  なるべくやさしく告げながら、微笑みかける。洗面台の鏡に映った理央と目が合った。  酔いのせいか、その瞳は潤んでいて、美形っぷりをさらに際立たせている。恋愛は早期リタイアだと決めていなければ、うっかりときめいてしまいそうだ。  その美しい顔が、不意に歪む。  ――んん?  みるみる青ざめていったかと思うと、理央は口元を押さえ、洗面台にもたれかかった。 「え、ちょ、等々力くん? 待って、ちょっとだけ我慢して、こっち」  あわてて個室に誘導し、背中をさする。理央は、盛大に吐いた。  結局それを機に飲み会はお開きになった。  のは、いいのだが。 「悪いな、水野。ほんとならうちに泊めるべきなんだけど」  緒方の家は最近一番下の子が生れたばかりだ。緒方はともかく、奥さんの負担を思うと任せるわけにはいかない。泉は泉で「人の金で飲み食い最高。人の金で飲み食いしてさっさと帰るのはさらに最高」と本当にさっさと帰ってしまった。もっとも泉も彼女が家で待つ身だ。   当然、全てのお鉢は佑に回って来た。 「等々力くん、家どこだっけ?」 「……丘……」  丘、と付く駅名はこの辺りに複数ある。詳細を聞き出そうにも、酔っている上に東京から来たばかりの理央の言葉は、要領を得ない。  おれだってこねぎが家で待ってるんだけど――  スマホでペットカメラを立ち上げる。こねぎは最近お気に入りの段ボールの中に入ってくつろいでいるようだった。  こねぎはいい子だなあ。人間よりよっぽど手間がかからない。  幸い、佑の家はここから数駅だ。着替えとこねぎの世話は朝一番に戻ってすればなんとか出社に間に合うだろう。  とりあえず今日は、この辺りのビジネスホテルにでも泊まるか。  頭の中でそう段取りをつけると、佑は理央の長身を引きずるように肩を貸し、ホテルに向かった。  苦労して理央を部屋に運び込み、ツインのベッドの片側に座らせる。 「等々力君、シャワーどうする……って聞こえてないか」  取り敢えずしわにならないよう上着を剥ぎ取ってやると、理央は糸の切れた操り人形のようにぱたんとベッドに倒れ込んだ。 「やれやれ」  ぼやきつつも、加減できない若さを微笑ましくも感じる。 「都会からひとりでいきなりこっちに来るんだから、大変だよね……」  気づいたら、眠る理央の肩をそっと撫でていた。  総務の佑には転勤の経験がない。だが毎春異動の諸手続をする中で、三月半ばに辞令が出て、それから住むところの手配もするなんて、実に非合理的だと感じている。どう考えても悪しき慣習だ。  その上すぐに目に見える成果を求められる営業仕事をするなんて、自分なら到底無理な話だと思う。  佑も上着を脱ぎ、理央のものと並べてドア脇のハンガーラックにかける。ネクタイの結び目に指をかけたときだった。 「水野さん」  いつの間にか起き上がっていた理央が、すぐ背後に立っていた。 「うわびっくりした。なに? あ、水とか飲む?」  並んで立つとやはり上背がある。肩を貸していたときには感じなかった奇妙な圧迫感を覚えながらふり返ると、理央の唇から低い呻きに似た声が漏れた。 「……です」 「ごめん、聞こえなかった。もう一度」  言ってくれる? という問いが、最後まで言葉になることはなかった。  理央の長身がずい、と距離を詰め、気づいたらドアを背に追い詰められていたからだ。  狭い部屋のことだ。理央の体が覆い被さると、灯はさえぎられる。暗がりの中で、理央の絞り出すような声がした。 「俺、SEX下手じゃないです」  さっき拾い損ねた言葉は、これだったか。 「あの、あれは、ちょっとびっくりして、思わず出た言葉といいますか」  しどろもどろに言い訳する。 「ちゃんと、謝ろうとは思ってまして」  我ながらなぜ敬語になってしまっているのか不明だ。  刹那、理央の瞳が、頼りない灯しかない中で鈍く光った気がする。  どん、と耳元で音がして、佑は身を竦ませる。怒りを孕んだ視線が、すぐ間近に迫っていた。 「こういうの壁ドンって言うんだっけ」そう混ぜ返したいのに、見つめてくる眼差しは鋭く、言葉は行き先を見失う。  ベッドサイドのかすかな灯りしかない、五月の夜は青かった。汗と整髪料と、さっきまでいた店の酒の匂いが間近に香って、その生々しさに息を呑む。  理央の声は、仕事中とは裏腹に湿り気を帯びている。 「俺、SEX下手じゃないです。――試してみます?」

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