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なかったことに(1)

「う……」  佑は自分の声で目を覚ました。  痛みがじょじょに明確になると、昨夜のことが思い起こされる。跳ね起きれば、鈍い痛みが全身を貫く。 「……った」  やってしまった。  よりによって会社の後輩と。  理央は同じベッドでまだ眠っていた。その横顔は、いっそう作り物めいて整っている。 『は……、えっろ……』  この顔から紡がれたとは信じ難い、雄丸出しの囁きが、耳の中によみがえる。佑はぶるっと身震いした。  あんなに欲望丸出しの掠れた声を近くで聞いたのは、いったいいつぶりだろう。  凄く――  うっかり震えに身を任せてしまいそうになり、頬を叩く。  凄く、なんだ。俺のばか。  己を叱責していると、スマホがぶるっと震えた。着信ではなく、アラートだ。 「うわ、そうだった」  今日はグループ全社を繋ぐWEB朝礼の日だ。もちろん総務は準備に駆り出されている。  これから一旦帰宅してこねぎの世話をしてシャワって――  頭の中でせわしなく段取りを模索する。もう出ないと間に合わない。慌ただしく昨日のシャツとスーツを身につけ、佑はホテルを飛び出した。 「ごめん!」  遅刻ぎりぎりで大会議室に飛び込んだとき、準備はあらかた終わってしまっていた。 「大丈夫ですよ。いい機会なんで、やったことないメンツで準備しました」  確実に理央の次に飲んでいたはずの泉がちゃきちゃきと仕切っている。座っててください、と言われて足を向けた先に座っていたのは――理央。  とっさに辺りを見渡したが、可能な限り人を入れた会議室の椅子の間は狭い。もたもたしているうちに後続がやってきて、島の中から抜け出せなくなってしまった。 「……」  やむなく隣に腰を下ろす。理央はいつものようにノートパソコンを広げたままだ。無表情な横顔からは、なにを考えているのかわからない。 「――今朝、起きたらもういませんでしたね」  前方のスクリーンを見つめたまま、理央が呟いた。きゅっと心臓が引き絞られたような気がする。 「あ、う、うん、黙って出てごめんね。等々力くんよく眠ってたし、一旦家に帰りたくて」  まさかこんなところでいきなり「俺たち昨日SEXしましたよね」とは言い出さないだろうが、佑は努めて平静を装って答える。 「そうですか。――昨夜」 「ん? ああ、お支払いはほんとに緒方さんがもってくれたんで、大丈夫ですよ」  どこからを指しての「昨夜」なのか、わかってはいた。  わかっていながらはぐらかしたのだ。  だって、それが一番いいだろう?  佑はいつものように顔面に無難な笑みを貼り付けて、誰にともなくそう問いかける。  昨夜、理央はとんでもなく酔っていた。酔った勢いで男とやってしまったなんて、期待のエースにとっては黒歴史でしかないはずだ。  理央は怪訝そうに眉根を寄せた。 「そうじゃなく、ホテルで」  引き下がらないのは、若さゆえだろうか。 「あー、すみません。僕も結構酔っててホテルとったあとは全然記憶がないんですよ」  たはは、とわざとらしく笑みを作る。  都合の悪いことをもみ消すと一度決めたなら、とにかく徹底してしらを切り通す。これが三十路まで生きて佑が身につけた人生の真理のひとつだった。  まだ体の奥に残る埋火のような熱は全力で無視して、いっそう笑みを深くする。 「なにか、ありましたか?」 「――」  理央はいきなり立ち上がった。  怒りを孕んだ眼差しに射貫かれて、佑ははっと息を飲む。  怒り? なぜ? 酔った勢いで男とやってしまったなんて、消したい記憶でしかないだろうに。  理央の眼差しは強く、佑には受け止めきれない。 「なんだ、見えないぞ」  後方にいた年配社員から声が上がって、真っ直ぐに自分に向けられていた視線は断ち切られた。理央は大人しく座り、スクリーンには東京本社の会長室が映し出される。       それきり、理央はこちらを一度も見なかった。

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