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なかったことに(2)
翌日、佑はコピー用紙の載った台車を押していた。フロアまで業者に運び込んでもらえれば助かるのだが、個人情報を扱うという業種の性質上、こんなことも総務の仕事だ。
幸い、大きな台車の性能は良く、運ぶくらいはなんでもない。問題は上げ下ろしのときだった。
「う」
それ以上声を出すこともできない鈍い痛みが、全身を貫く。
筋肉痛が一日おいてから強く出るとは、いよいよ中年の仲間入りだ。
それもSEXで。
やれやれ、と佑は人知れずため息をつく。なにも自ら固く心に決めなくたって、こうして寄る年並みが「もう恋愛なんてやめておきなさいよ」と訴えてくる。
わかってますよ、と目に見えない何者かに心の中で応じる。
やや強引だが、ちゃんとなかったことにできたと思う。あっちはあまり社内にもいない営業だ。これから顔を合せることもなければ、いつか一夜の過ちとして忘れられていくだろう。
「いてて」
小さく呟きつつ、どうにかフロア最後のコピー機にたどり着くと、トナー切れを知らせるランプが点灯していた。
「………………」
最後に使った人がやってくれればいいのになあ、と思いつつ、心を無にしてトナーを交換する。
「う……っ」
しゃがんだ瞬間またしても節々が痛んで、手元が狂う。傾いたトナーのボトルから粉がこぼれ、手が汚れてしまった。なんの自慢にもならないが、トナー交換は得意なのに。
とにかく手を洗おうと給湯室に向かうと、今度は流し周りがびしゃびしゃの水浸しになっているのが目に入った。
「………………」
〈給湯室は綺麗に使いましょう〉の注意喚起だって、毎週社内メルマガに載せてるのにな――ぼやきながら使ったペーパーは、最後の一枚。
給湯室の備品の補充は基本清掃業者がやってくれている。が、常時貼り付いているわけではないから、タイミングによってはペーパータオルが切れているなんて事態も当然生じる。そしてそんなとき「俺が気を利かせて出しておこう」なんて社員は、トナー交換同様滅多にいない。
「やれやれ、本当にお母さんだ」と本日何度目になるかわからないため息をつきつつ、棚の上のストックに手を伸ばす。またまた節々が痛んで「……うっ」と呻き声が漏れてしまったとき、まるで意思の力が奇跡を起したかのように、すっと腕が伸びた。――のは、もちろん錯覚だ。
「これですか?」
背後に理央が立っていた。
すっかり忘れていた。ここは営業部があるフロアだ。
突然肩に手を置かれ、びくっと体が反応してしまった。振動が伝わってしまったらしく、理央の手元が狂う。
山と積み上げられていたペーパータオルのパックが崩れ落ち、ぽすっと佑の頭を経由して床に散らばった。
「ご、ごめん」
肩に触れられただけで過剰に反応してしまった恥ずかしさと、間抜けなところを見られてしまった恥ずかしさ。両方でそう告げると、佑は慌ててしゃがみ込み、床に散らばったペーパータオルを拾い集めた。
両手に持てるだけかき集め、拾い残しがないかとふり返る。同じようにしゃがんでいた理央の顔がすぐそこにあった。ちょっと手を洗うだけのつもりだったから、明かりもつけていない。
廊下から差し込む明かりを背にして、理央がこちらの顔をのぞき込んでいる。後ろはシンクだから、これ以上距離もとれない。
脳裏にあの夜の声がよみがえった。
『俺、SEX下手じゃないです』
――うわ、
今度ははっきりとひとつ心臓が跳ね、佑は思わず胸を押さえた。もう何年も平熱三十五度で生きてきた身に、この刺激はきつい。
「これ」
が、理央が何事もなかった様子でペーパータオルを一つ差し出してきて、佑は拍子抜けした。
そう、だよな。
部署が違うとはいえ自分は先輩だ。先輩が困っていたら、後輩としては手伝わないわけにはいかないだろう。ただそれだけの話。他意はないはずだ。
「あ、ああ、うん、有り難うございます」
受け取って抱え直そうと思ったとたん、腕一杯に抱えていたペーパータオルのひとつがバランスを崩して転がり落ちた。
「わ」
拾い上げると、今度は別の包みが落ちる。それを拾い上げれば、今度は別のものが落ちた。
こ、こんなときに限って――
さっと片付けてさっさと立ち去りたいのに、なんたる間抜け。焦ってしゃがみ込んだ瞬間、理央も同じようにしゃがむ。
ごつっ。
思い切りお互いの頭がぶつかって、佑は尻餅をついた。
「った……」
なんという間抜けの上塗りか。
「ご、ごめん」
見ると、理央もまた無様に尻餅をついていた。呆気に取られた様子で、目を見開いている。佑の視線に気がつくと「いえ」とだけ呟き、すぐに立ち上がった。
明らかに決まり悪げな様子で視線をそらす。手の甲で口元を塞ぐその仕草には、羞恥が滲んでいる気がした。
これは――照れてる?
さっきまで狭い空間一杯に張り詰めていた空気が、わずかに緩むのを感じた。
カミソリ王も、尻餅をついたりもすれば、照れたりもするらしい。
――……かわいい。
いつもの顔が険しい分、垣間見えた年相応の幼さに目を奪われてしまう。
「す、すみません」
佑は、自身もぎこちなく笑みを浮かべたまま立ち上がった。ペーパータオルを棚に戻し、必要な一つだけを流しの横にセットする。
「じゃあ」と立ち去ろうとしたとき、
「水野さん」
入り口を塞ぐように回り込んだ理央に、行く手を阻まれた。
獲物を追い詰めるような眼差しに、さっきまで見せていた年相応の幼さはない。
佑は思わず後ずさった。
狭い給湯室だ。すぐに腰の辺りがシンクにぶつかって、逃げる場所などない。耳朶に唇が触れるほどの耳元で、囁かれる。
「……あの夜のことですけど」
「失礼しまーす」
清掃業者の女性の声が、張り詰めた空気を霧散させた。いつの間にか巡回の時間になっていたらしい。
「あら、明かりもつけずに――」
「ちょっと流し拭くだけのつもりだったんで!」
それだけで、他意はないんです。弁解する気持ちで叫んだ声は不自然に大きくなった。
「すみません、すぐどきます。いつもありがとうございます!」
呆気にとられてる理央の横をすり抜けて、廊下に出る。珍しいことにちょうどエレベーターがやってきて、佑は台車ごとそれに飛び乗った。幸い誰も乗っていない。
壁に頭を預け、ふうと息を吐いた。
『……あの夜のことですけど』
理央ははっきりと覚えているんだろうか。
いや、覚えてたっていいけれど、せっかくこっちがなかったことにしようとしてるんだから、そこはくんでくれよと思ってしまう。
――まだ心臓がばくばくいってる。
胸が苦しい。長らく存在さえ忘れていた器官に突然負荷がかかって、体が不満の声を上げているみたいだ。
こういうのは困る。
困る、と思うのに、その中にほんの少しだけ別の感情が混ざっている気がする。
その正体が一体なんなのか、佑は気がつかないふりをした。
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