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社員証とあの日の記憶

 とにかく、このまま「なかったこと」にするには、社内で顔を合せないようにするのが肝心だ。  翌日から佑は、理央のいるフロアで滞在時間を長くしないよう努めた。  コピー紙の補充と郵便物の配布は、人に代わってもらう。そこまですれば、わざわざ探さない限り社内ですれ違うことはそうないはずだった。  ところで、社では〈ランチミーティング〉を推奨している。  文字通り昼休みにランチをしながら仕事の進捗を報告したり、部署内の親睦を深めるのが目的だ。     総務部では、短い昼休みにわざわざ店に行くのは面倒だということで、ちょっと豪華な弁当を頼むことにしている。  今月は佑が手配の当番だった。  午前の仕事を早めに終わらせて、予約してあった店に受け取りにいく。十人分の豪華牛タン弁当は、思いのほかずっしりしていた。  泉ちゃんに手伝ってもらえば良かった。  弁当を手配するのは初めてでもないのに、どうも判断力が鈍っている。なぜ鈍っているのかは、考えたくなかった。  すぐ済むと思い、スマホも置いてきてしまったから、いまから誰かを呼び出すこともできない。  弁当をそれぞれ五個ずつ入れたビニール袋を両手に持ち、なんとか会社まで運ぶ。店の人が良かれと思っておまけにつけてくれたテールスープのおかげで、運びにくさは倍増だ。  よたよたとエレベーター前のエントランスまでたどり着き、よし、あとひと息だと思ったそのとき、佑ははたと気がついた。 「社員証……」  会社の入り口のゲートは、社員証をタッチしないと通れない。そして佑は、さっき店で「運ぶとき邪魔だから」と、ストラップ付きの社員証を胸ポケットにしまったところだった。  弁当の袋を腕のほうに滑らせてみても、ギリギリ指が届かない。 「く、この」 「……なにをしてるんですか」  背後から聞こえてきた声で、危うく弁当を取り落とすところだった。  おそるおそるふり返る。    気のせいであってくれという願いもむなしく、そこに立っていたのは、まごうことなき理央その人だった。  どうやら外回りから戻って来たところらしい。  よりによって、面妖なダンスのような動きをしているときに――佑が言葉に詰まっていると、なにかを悟ったように理央の切れ長の目がすっと細められた。つかつかと近寄ってきて、社員証のカード部分を佑の胸ポケットから引き抜く。  ん……っ。  漏れ出てしまいそうになった声を、佑はかろうじて飲み込んだ。  こんなことであの夜のことを思い出してしまうなんて、自分の浅ましさが嫌になる。  幸い理央は佑がそんなことを考えているとは気がつかない様子で、自分の社員証をタッチした。ゲートを開けると、今度はさっき佑のポケットから取り出したものをタッチする。  佑は、弁当をがさがさぶつけながら、なんとかゲートを通り抜けた。 「あ、ありがとうございました」  面妖ダンスの羞恥もまだ消えないまま、たどたどしく告げる。一刻も早くここを立ち去りたいのに、なぜか理央は社員証を指先で弄んだまま、じっとこちらを見つめていた。  佑が、視線に気づくのを、待っていたかのように。  やがて理央は、社員証を佑の胸ポケットの中に差し込んだ。  目を合わせたまま、ゆっくり、ゆっくりと。  この整った顔を直視するのは嫌なのに、その場に縫い留められたように動けない。  まだ青い、常に怒りを飲んだような眼差しが「こっちを見ろ」と挑んでくるようだった。  薄い唇。あの唇で、体中愛撫された。  一夜の過ちを思い出したとき、固いプラスチックのケースが、微妙なところをかすめる。  んん……っ。  今度はさっきより強く体が悦んでいる。しかも、気のせいでなければ――  ――今、等々力くん、わざと?  考えると再び体がぶるっと震えてしまう。意思の力に関係なしに。 「――水野さん」 「あー、エレベーター来ましたね! ありがとうございました! じゃ!!」  ちょうど昼時になったのだろう。続々と社員が下りてくるのに紛れて、佑はエレベーターに乗り込んだ。  わざわざあんなやり方をしなくても、弁当を一旦どこかに置いて取り出せばいいだけだったのではと気がついたのは「もー、水野さんー、ちょっとスープこぼれてるー」と泉に怒られながらのことだった。  意識してしまうと、逆に引き寄せの法則が働いてしまうものなのだろうか。  翌日も、その翌日も佑は社内で理央と出くわしてしまった。その度に、あの視線に射抜かれないよう急いで回れ右して逃げることになる。  ――なんだか出社するだけでいつもの倍は疲れてるよ……  がつがつ出世など目指さない。ゆるゆる過ごす穏やかサラリーマン生活だったはずなのに、まったく落ち着かない。  もう何度目になるかわからないため息をつき「んな」というこねぎの鳴き声で佑は我にかえった。  そうだった。せっかく仕事はもう終わり、くつろげる自宅にいるところなのに、理央のことばかり考えている場合ではない。  再び「んな?」と鳴きながら小首をかしげるこねぎの姿は、実に愛らしい。  うっかり会社の後輩と寝てしまい、それから逃げ惑う羽目になっているのは、きっとこんなに愛らしいこねぎを一晩ほったらかしにしてしまった罰だろう。  つぶらな瞳に罪悪感をかき立てられ、佑はこねぎの好きなウェットフードを出して来た。普段は特別な日にしか出さないようにしているものだ。  封を切ると、こねぎはさっそく喜んで喰いついてきた。  少しずつ細いアルミ袋から押し出してやっているのに、それではもどかしいとばかりに両手で掴みかかるものだから、勢い余って佑の指までざらりと舐めた。 「…………っ!」  あっという間に袋を空にすると、少しの残り香も逃すまいとするかのように、佑の指をぴちゃぴちゃと舐める。 「ちょ、これ、」  『しゃぶって』  あの日の記憶がよみがえる。こねぎのように喉が鳴ってしまった。 「ごめん。ほんっとーにごめん……!!!!」  すっかり佑の指をしゃぶりつくしたこねぎが「んな?」と再び首をかしげる。佑は小さな体をぎゅうっと抱きしめた。

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