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カミソリ王の別の顔

「水野さん。……水野さん!」  面を上げると、泉がふくれっ面でこちらを見ている。どうやら何度も呼ばれていたらしい。 「交通費のデータ、ロック解除してなくないです?」 「あ、ああ、ごめん」  社内システムで共有している書き込み可能なデータは、編集中に他の人間が触れないようロックがかかるようになっている。作業が終わったら解除するのだが、忘れたまま席を外してしまい、使えなくなるということがままあった。  いつも「ロック解除し忘れにご注意ください」と注意喚起メールをする側なのに、こんなことではだめだ。またまた森のフクロウが遠のいていくようで、ため息が漏れた。 「……水野さん、最近なんか挙動不審ですよね。なんか悩みでもあるんですか?」  泉が疑わしげなじと目でこちらを見てくる。データを使用中の自席だから、スマホを出してこねぎの写真でごまかすこともできない。 「あー、最近なんか寝付きが悪くて。コーヒーでも買ってくる」  結局物理的に逃げることにして廊下に出ると「おう、水野」と声をかけられた。  緒方だ。 「総務になにかご用ですか? あ、もしかして文具の在庫切れてました? 中で泉ちゃんに――」 「いや。水野にちょっと頼み事。――今日、等々力と一緒に帰ってやってくれないかと思って」 「……と!?」  よりによって今一番会いたくない相手の名前が緒方の口から飛び出し、佑は声を詰まらせる。  緒方は「これこれ」と壁の掲示物を指さした。 〈ウォーキング大会〉 「等々力、全然歩けてないんだよ。販売企画の部長にちくっと言われちゃってさ」  バブル入社の上司には、この手の企画が大好きな層がまだ一定数いる。先日社内システム上に歩行距離の中間報告をしたところだから、それを見たのだろう。 「この辺がまだよくわかってないから歩けないんじゃないかな。朝夕一駅でも歩いたら、街の様子もわかるだろ。営業のとき話のきっかけにもなるんじゃないかと思って」  緒方はかすかに声のトーンを落とした。 「――東京じゃ大企業相手にコストメリット出せれば営業務まったかもしれないけど、こっちは中小が多いだろ。もうちょっと、いや、だいぶ愛嬌がな。社長さん話し好きの人多いし」  なるほどそういうことか。さすが人間三周目、細やかな気遣いだ。しかし、よりによって。 「そういうことでしたら、緒方さんと一緒のほうがいいんじゃないですか? 仕事上の話もできるでしょうし」  不自然にならない程度に、やんわり申し出てみる。緒方は表情を曇らせた。 「そうしたいのはやまやまなんだけど、今ちょっとうちの奴の調子が悪いんだよ」 「悪いな」と重ねられれば、頷くしかなかった。   「急な仕事が入ったりしていないかなあ」という淡い期待は叶えられることがなく、定時に階下に下りていくと、理央は本当にビルのピロティで待っていた。  このスペースの一角には、ちょっとした食事ができる店やコンビニも入っているから、近隣の別の会社の人間も通る。OLらしき女性の群れが、物憂げに佇む理央のほうをちらちらと見ては、何事か囁き合っているのに佑は気がついた。  ……目立つんだよなあ。  地味に、目立たず、波風立てず――無害なフクロウになりたい佑にとって、理央はとことん鬼門だ。もちろんそんなことはおくびにも出さず「お待たせしました」と声をかける。 「行きましょうか」  いつもなら直結の地下鉄駅へ向かうところだが、ピロティから通りに出た。佑も地上を歩くのは久し振りだ。 「とりあえず二駅くらい歩きます?」  訊ねながらふり返ると、すぐそこにいると思っていた理央の姿が、忽然と消えていた。 「んん?」  周りを見渡す。人ひとりが突然消滅するわけもなく、理央はいた。ただし、思い切り進行方向とは逆を向いて。 「等々力くん、こっち!」  呼びかけると、理央は怪訝そうな顔でふり返った。てのひらの中のスマホに表示されているのは、地図アプリのようだ。 「地図見てたの? ――見てたのに?」  理央は端正な顔を不服げに歪めて「……はい」とだけ応じる。 「等々力くん、もしかして方向音痴……?」 「越してきたばかりなので」  理央はぼそっとそれだけ漏らした。 「えっと、取り敢えず隣の駅はこっち方向だよ」 「今行こうと思ってたところです」  なんという負けず嫌い。これでは苦労も多いだろう。  そう考えると、生来の世話好きがむくむくと顔を出してしまい、佑はあれこれ説明しながら足を進めた。 「コンビニ、うちの一階にも入ってるけど、別のチェーンがよければ一番近いのはここだよ。あとここの喫茶店はモーニングが有名。でも喫煙可だから吸わない人には厳しいかも。社内の集荷終わっちゃってからどうしても急ぎで郵便出したいときは、あそこの郵便局使って、領収書もらってきてね。それからあそこのドラッグストアは、中にコーヒー飲めるカフェスペースもあって、結構穴場」 「ドラッグストアに、カフェ?」  怪訝そうな声音の理央に、佑は苦笑してみせた。 「こっちじゃ珍しくないんだよね」  盆地であるこの辺りの夏は厳しい。そのせいか、昔からいたるところに喫茶店があるし、新しくできるドラッグストアの片隅にはカフェスペースが必ずといっていいほど併設される。 「紙コップのセルフだから、会社の休憩室と変わんないけどね。でも一度仕事から頭を切り離したいときに、休憩時間の範囲で行って戻って来られて、かつ社員とバッティングする率が低いって貴重で――」  つらつらと調子よく語るのをさえぎるようになにかが顔に当たって、佑は空を見上げた。  その間にも、ぽつぽつと路面に五百円玉大の円が描かれていく。  雨だ。それもかなり大粒の。  空は見る間に暗くなり、跳ねた雨粒がスーツの裾を濡らした。最近は都市部でも天気の急変が珍しくない。長引きはしないだろうが、やり過ごせるレベルの雨量でもなかった。 「取り敢えず中入ろう」  ちょうど話題にしていたカフェに飛び込み、コーヒーを買う。硝子張りの壁面に沿って設けられたカウンター席に並んで座ってから、はたと気がついた。  ふたりで店に入ってしまった。なるべく顔を合せたくないと思っていた相手と。  並んで座ったりなんかしちゃって、あの日のことを蒸し返されたらどうしたら――気まずさを噛み締めていると、紙コップを所在なげに弄びながら、理央が呟いた。 「いいんですか」  耳障りのいい低めの声で訊ねられ、心臓がひとつ跳ねる。  ――な、なにが? 「貴重な穴場なのに、俺に教えてしまって」 「ああ、そういう……」 「そういう?」 「ううん、なんでも。まあ、等々力くんはぺらぺら喋ったりしない人でしょ」 「……そうですか」  理央は顔を背けると、それだけ呟いた。これはどういう反応なんだろう。掴みかねていると、背後で若い女性の声がした。 「やばい。イケメンこっち見た」  コスメも扱うドラッグストアの中ということもあり、この時間帯は女子高生が多い。理央が入って来たときから様子をうかがっていたのだろう。  社のピロティですれ違うOLたちは黙って視線を向けてくる程度だが、若い彼女たちは口から感想がだだ漏れてしまっている。 「……大変だね」 「もう慣れました」  理央は淡々とした調子で応じ、コーヒーに口をつけた。余裕あるなあと思いつつ、佑もカウンターに向き直って紙コップを手の中に包む。  鏡のようになった窓ガラスに、理央の虚ろな顔が映り込んでいた。 「勝手に付き合ってることにされるし、家族構成から携帯番号までいつの間にか握られてるし、大学の飲み会じゃ飲み物に薬入れられるし」 「そ」  佑は言葉を詰まらせた。 「……れは、凡人には想像もつかない苦労だな……」 「幸い、勃たなかったけですけど、写真は撮られて。ばらまかない代わりに一日だけ遊園地に付き合えって。仕方なく出向いたら、全然楽しそうじゃないってキレられました」 「…………」  どこから突っ込んだらいいのだろう。 「就職したらそういうのは減りましたけど、実績作っても『枕か?』とか言う男が増えましたね」 「なんでもできちゃうと、そういうこともあるよね……」  今でこそパワハラ厳禁の空気が定着しているが、人事を巡る男同士の醜い嫉妬も佑は様々に見てきた。総務から異動願いを出したことがないのは、そのせいもある。  苦虫を噛みつぶしたような理央の声が、傾けた紙コップの中に落ちた。 「なんでもはできないです」 「そう? たとえば何?」 「……ウィンクとか」 「うぃんく」 「どう頑張っても両目一緒になりますね」  理央のコーヒーだけ煮詰まっていただろうか、と思ってしまいそうなほど苦々しい顔をして言うから、佑は思わず想像してしまった。理央がなんとかウィンクしようと四苦八苦する姿を。 「――っ」  かみ殺したつもりの笑いが、うっかり漏れてしまう。 「まあ、日常生活でウィンクすることほぼないんで、いいですけど」  大真面目に言われれば言われるほどおかしい。ついに佑は噴き出してしまった。 ひとしきり肩を震わせたあと、慌ててフォローする。 「――ご、ごめん。あの、他の人には秘密にしとくから」 「……水野さんは、ぺらぺら喋る人じゃないでしょう」  そう言って再びコーヒーに口をつける理央の横顔は淡々としていて、相変わらず考えていることが読み取れない。  けれど、不思議となにか大事な物を差し出してもらったような感覚があった。  ぺらぺら喋る奴ではないと、その程度は信頼に足りる人間なのだと、思ってくれている。  佑の胸を、罪悪感がちりとひっかく。自分は理央のことを〈東京から来た優秀な港区男子〉としか思っていなかったのに。「カミソリ王」というあだ名を鵜呑みにして。  自分だって「お母さん」というコンテンツとして見られることに、うんざりしているというのに、だ。  佑は、以前ひっかかっていたことを思い出した。 「ウォーキングの写真撮影の日、助けてくれたよね?」 「……ああいう輩が嫌いなだけです」  やっぱり、あれは意識してやってくれたことだったのだ。 「そういうところ、もっと前に出したらいんじゃないかな。あと方向音痴ってことも」 「はい?」 「本当はやさしいところとか、案外可愛いところとか。中小企業の社長さんて、基本世話好きだから、まだ道が全然わからないって言ったら、食いついてくれるんじゃないかな。イケメンが困ってると、逆に親しみが増すと思うよ。ギャップ萌え、ってやつ?」  つい勢い込んで話してしまってから、理央が無言でこちらを見つめていることに気がついた。  いつも不機嫌そうに眇めている目を見開いて、不可思議なものでも見るような顔をしている。  なんだろう、と怪訝に思ってから、自分がなにを口走ったのかやっと気がついた。  ――やさしい、とか可愛いとか言ってしまった。 「あ、雨、止みましたね! また降ってくるかもしれないし、今日はこれで!」  わざとらしく声を上げて立ち上がる。佑は逃げるようにその場をあとにした。

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