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俺も、覚えていないので

 逃げるように理央と別れて帰った週の土曜、佑は市街地から電車で一時間半ほどの森林に立っていた。  国から課せられたCO2削減の取り組みのために、会社が所持している山だ。 「たまにこういうとこ来ると、空気がうまいなあ」  集まった社員たちが、口々にそんなことを口にしている。  年に一度の伐採ボランティアは、下草を刈ったり、若木を間引いたりする。  会社では幾つもボランティア活動を企画していて、半期に一度はそのうちのどれかに参加するのが好ましいとされている。ちなみに「私は近場のごみ拾いのほうにしときまーす」と言って、泉はいない。  佑がよりヘビーなほうを選んだのは、そのほうが理央とバッティングしないだろうと思ったからだ。ところが。  いる。  屋外での奉仕活動など、若者は真っ先に避けそうだったのに。  しかも事前の通知通り、動きやすいジャージ姿。軍手もちゃんとはめ、首にタオルまでかけている。そんなスタイルでも目を引く華があるからさすがだ。 「お、水野お疲れ」  声をかけてきた緒方に、佑は訊ねた。 「等々力くん、緒方さんが誘ったんですか?」 「いや? うち今日ちびたち連れて来てるし」  伐採終了後の懇親バーベキューには家族も参加可だから、会社への義理と家族へのサービスを兼ねる社員もいる。 「こっちに来た頃、どれかに参加しろよって言ったときには微妙な顔してたのに、頑張って馴染もうとしてるのかもな。最近、前よりはとっつきやすくなったってみんな言ってるし。水野がかまってくれたおかげか?」 「いえ、僕は何も」  あのカフェの日、思わず「もっとやさしいところや可愛いところを出していったら」とは口にした。  でもこんなにすぐ行動を変えてくるとは思わないじゃないか。カミソリ王と噂されていた男が。  社員同士のコミュニケーションがうまくいくよう気を配るのも総務の仕事の一部だから、緒方の言うとおり頑張って馴染もうとしているなら、良かったと思うべきなんだろう。  でも、どうしてだろう。  何度も参加している社員から小型のこぎりの持ち方を教わっている姿や、そのぎこちない様子に女性社員が微笑んでいるのが目に入ると、佑の胸には息苦しさのようなものがあった。    隣で緒方が「このボランティアしんどいけど、たまに山に来ると気持ちいいよな」などとしみじみ深呼吸しているように、山の空気はしっとり水けを孕んで、清々しいというのに、だ。 「――水野」  理央たちが談笑している姿から目を離せずにいると、不意に緒方が佑の首筋に触れた。  再び離れていった指先を眼前にかざし、笑顔になる。 「毛、ついてたぞ。こねぎちゃんだろ」 「え、あ、あ、……あー。すみません」  最近、愚痴をこぼしてはお腹を吸わせてもらう、〈こねぎセラピー〉がすっかりルーティンになっているのだ。 「今朝、出がけに吸ってきたので」 「わかるわかる。うちも交代で吸ってからきたわ」  猫好き同士は話の通りが早くて助かる。笑い合っていると、なにかちくちくと視線を感じたような気がした。  ふり返って辺りを見渡すが、らしき人影は ない。いつの間にかベテランによる指導は終わって、それぞれ作業に散らばっていったようだ。  かあっと耳たぶが熱を帯びる。  なんで、見られてたらどうしようなんて思うんだ。――等々力くんに。  佑はかぶりを振ると、自分ものこぎりを手に山に分け入った。      伐採作業もバーベキューも予定時間通り無事終わり、佑は山林をあとにした。CO2削減のための取り組みで車を使っては本末転倒だろうということで、移動手段は電車だ。  途中まで一緒に乗っていた同僚たちが、ひとり、またひとりとそれぞれの乗換駅で下りていく。同年代の家庭持ちは、だいたい郊外に住んでいるからだ。  みんな、いつの間にかそうやって〈ちゃんとした大人〉になってるんだよなあ。  順番に彼らを見送って、最後に残されたのは佑ひとりだった。  ドアにもたれかかると、そんなつもりはなかったのに、ふう、とため息が漏れる。車窓に写し出された自分の顔はさえない。  ボランティア終了後のバーベキューでも、理央は自ら火起こしに参加していた。  炭火をおこそうと苦戦するのを、周りがはやし立てる。そんな姿は、和気藹々として実に楽しそうだった。佑は別のグループだったが、理央は長身だから自然と目に入ってしまったのだ。別に、わざわざ目で追ってたわけじゃない。  JRから市営地下鉄に乗り換える頃には、佑の自己嫌悪は深くなっていた。  散々逃げ回っていたのに、理央が他の誰かと楽しげにしているのは気に食わない。 我ながらどういう了見だ。自分勝手にもほどがある。  ぐるぐると思いにふけっているうちに、乗換駅にたどり着いていたらしい。駅名を告げるアナウンスに「やば」と呟いてギリギリで飛び降りると、ホームを歩いていた誰かとぶつかりそうになってしまった。 「すみません!」  とっさにそう口にして面を上げる。「いえ」とだけ短く降ってきた声に、聞き覚えがあった。 「……等々力くん」  忘れていた。この駅はいくつかの路線が乗り入れているから、理央もここで乗り換える可能性は、充分にあったのに。 「あ、えっと、今日はお疲れさま」 「水野さんも」  最低限のことだけ告げるその声は、なんだかよそよそしい。森林で楽しそうにしていた姿とはあまりにも温度差がある気がして、佑は戸惑う。  どうしておれにだけ、そんな態度を? 「失礼します」  そんな佑の胸の内などまるでおかまいなしに会釈して、理央は歩き始める。  理央もここに来るまでにひとりになったらしく、他の社員の姿はない。発車したばかりのホームに人影はまばらで、そのことも佑を大胆にさせた。 「あの! ……あの日、ホ、ホテルでのことなんだけど」  ずっと逃げ回っていたのに、いまさらそこに触れるなんて、自分でもどうかしていると思う。  けれど理央の足を止めるための言葉が、他に見つけられなかった。 「なにも覚えていないって言ったけど、やっぱりちゃんと話そうと――」  歩き出し始めていた理央が足を止める。ほっとしたのもつかの間、ちらりとだけ振り返り告げられた声の響きは、ひどく冷たかった。 「大丈夫です。俺も、なにも覚えていないので」

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