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稲妻(1)

〈走るな〉と自ら注意喚起のポスターを貼り出した廊下を、佑は走る。エレベーターホールにたどり着いたとき、扉は閉まりかけていた。 「待って!」  思わず放った声は、エレベーターホールにこだまする。閉じかけたドアに強引に手をねじ込んで飛び乗った。  中にいた理央は、驚きに目を見開いている。  その顔を見て、やっと他にも人が乗っていたかもしれないことに思い至った。  もう何年も、こんなふうに衝動的に動いたことはなかったのに。  ともかく他に人がいなくて良かった――そう思ったのも束の間、密室にふたりきりという現実が襲いかかってくる。 「え、ええと」  自分がなにをしたかったのかわからなくなり、佑は言葉を詰まらせた。  今ならまだ「どうしても急ぎで下のコンビニに行きたくて」で逃げられるだろうか。  そんな甘い考えを責めるように、ドーンと大きな音がした。  なにかが乱暴に引き裂かれるような音が続く。 「えっ、なに?」 「――落雷、」  理央が短く呟く。 「そういえばさっき課長が雨がどうとか……」  ビルの中にいるとわからなくなるが、どうやらいつの間にか雨が降り始めていたらしい。ここのところ天候が不安定だとは思っていたが、エレベーター内にまで響いてくるとは、近くに落ちたのだろうか。    考えを巡らせている間に、明かりが頼りなく明滅したかと思うと、ふっと消えてしまった。  かごが大きく揺れ、それきりぴくりとも動かなくなる。 「停電……?」  暗がりの中、理央の呟きだけが聞こえる。 「大丈夫、予備電源がつくはずだから!」  気まずさも忘れ、佑は理央を落ち着かせるように叫んだ。幸い明かりはすぐについた。佑はそれを頼りに、操作パネルの通話ボタンを押す。 「すみません、エレベーターが止まってしまったんですが」  総務部は避難訓練も取り仕切るから、こんなときの講習も受けている。できるだけ心を落ち着かせ、佑は現状を伝えた。 『一帯が停電していまして、順次対応しています。無理にこじ開けたりしようとせず、そのまま待機してください』  返ってきた声は、思いのほか淡々としている。プロがこちらの状況を把握してくれているのだと思うだけで体中に安堵が広がって、佑は通話を終えた。 「えっと、たぶん、すぐ動きそうですけど、蒸しますし、こういときはできるだけ体力温存したほうがいいそうです」  講習で聞いた知識を伝え、佑はできるだけ汚れていない隅のほうへ腰を下ろした。  理央も対角線上に座る。予備電源の明かりは通常よりも薄暗く、落ち着かない気持ちにさせた。  ――気まずい。  子供のように縮こまって膝を抱え、佑は沈黙に堪える。  どうしても追いかけずにはいられなくて席を立ったはずだった。なのにこうして向かい合うと、自分がなにをしたいのかわからない。  ああ、こういう感じ。  自分で自分をコントロールできないこの感じ。  これが嫌で、だからもう大人しく森のフクロウになろうと思っていたのに。  無表情を顔に貼り付けていた理央が不意に身じろいで、佑はびくっと体を強ばらせた。  狭い空間だ。それは理央本人にも伝わってしまったらしい。  理央は乱暴に髪をかき上げると、ため息と共に吐き出した。 「なんなんですか」  その声には、いらだちというよりは、困惑の色が濃く乗る。 「なんで追いかけてきたりするんですか。……水野さんがなかったことにしようとしてるなら、俺もそうしようって決めたのに」  のに、という少し幼い語尾の響きを感じ取ると、佑の心は乱れた。  もう情熱に我を失いたくなんかないと思う一方で、カミソリ王の仮面の下に隠されたこの素顔を、方向音痴でウィンクができない素顔を、自分だけが知っていたかった。  自分の身勝手さに呆れる。けれど一度自覚してしまうと、想いはもう止められなかった。 「……等々力くんは酔った勢いで寝ただけなのに、本気になんかなりたくなかった」  いくら酔っていたと言ったって、自分は加減できていた。本気で逃げようと思ったらできたはず。  そうしなかったのは、理央に魅力を感じていたからだ。  自分よりずっと若い、強い雄の気配を濃厚に漂わせた男に求められる。そのことに魂は喜びを感じていた。  だからこそ、一晩限りにしておきたかった。  ――また、置き去りにされるのが怖くて。 「こ、こっちだって大変だったんですよ! 会社で顔合わせないように毎日スケジューラーチェックして――ときどき入力忘れてますよね。困るんで、ちゃんと毎日正確にやってください。社内メールでも毎週注意喚起してますよね!?」  自分でも、なにを言っているのかよくわからないまままくしたてる。理央も「わけがわからない」という顔をしながら、常にない佑の勢いに気圧されたのか「すみません」と頭を下げる。 「じゃなくて。――本気になりたくなかったって? 水野さんは、緒方さんのことが好きなんじゃないんですか?」 「な、なんで今緒方さん?」 「違うんですか?」 「もちろん人間的には好きですけど、恋愛的な意味で好きだったことはないです」 「だって、いつも距離近いし、ボランティアのときだって、いちゃいちゃして……触ってたでしょう。お子さん連れてきてるのによくやるって俺は」 「あ、あれはこねぎの――猫の毛がついてたのを緒方さんが取ってくれただけです!」  叫んだ声は、かごの中に響き渡った。 「家庭のある人相手にそんなこと、おれは」  自分で口にしながら、なぜこんなにも憤ってしまうのか、本当はわかっていた。  家庭ある人相手に、なんて本当は関係ない。 〈理央に疑われること〉がつらいのだ。  佑の剣幕に圧倒されたかのように、理央は口を閉ざした。疑われた哀しみが通り過ぎると、今度は憤りがわき上がる。 「だ、だいたい、酔った勢いでSEXしちゃう人に、人を非難する権利あります!?」  そうだ、そもそもの始まりはあれだった。 「あれは――水野さんが『SEXが下手』とか言うから」 「あ、あれは泉ちゃんが……物を大事に扱えない奴は、人も大事に扱えなくて、だからSEXが下手だって言ってたのにつられて……つい」  口ごもりつつもなんとかそう告げると、理央はふたたび険しい表情になる。 「――緒方さんじゃないなら、泉さんと付き合ってるんですか?」 「なんでそうなるかな!?」 「廊下の隅でこそこそしてたじゃないですか」  あのとき、理央はまさに一瞥をくれただけだった。時間にしてほんの数秒。  だからてっきり「忙しい営業部に比べて暇な連中だ」と反射的に思って睨んできたのだと思っていた。  だからこそ注意喚起を無視して、堂々とノートパソコンを広げて歩いていたのではないのか。  そう告げると、理央は端正な顔を強ばらせた。 「……いいなと思ってた人が誰かと物陰でいちゃいちゃしてたら、不愉快にもなります」 「いいなと?」 「――――」  理央は押し黙り、ふいと顔をそむける。 「……酔ったふりをしたのは申し訳なかったと思ってます。ちゃんと弁解したかったけど、水野さん、いつも逃げるから」 「待って。なにを言ってるかわからないんだけど」  いったいなにを弁解するというのか。いや、そもそも「酔ったふり」とは?  理央はじっとこちらを見つめている。そこにカミソリ王と呼ばれる鋭さはない。少年のように不安げに揺れている。  揺れながらも、その中に佑をとらえて放さない。 「……水野さんは覚えていないみたいですけど」  そう苦々しそうに前置くと、理央はぽつぽつと語り始めた。

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