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第8話

わいわいガヤガヤと賑やかな教室を、荷物を持った僕は後にする。 まだ自由の効かない体は鉛のように重く、呼吸もままならない程苦しい。 そこにぽんっと軽く背中を叩かれる。 振り返るとみゆきだった。 「おーし、もう帰るの?」 「うん、今日は具合が悪くてね。部長には適当に言っておいてもらえないかな?」 「具合悪いって、うっわ、顔色悪っ!熱でもあるの?」 不意にみゆきの手が伸ばされる。 僕のひたいに触れると、目を丸くした。 「っていうか冷たっ!!なにこれ、どうしたの?!」 「夏風邪?かな。悪いんだけど、そういう事だからよろしく頼むよ。」 「いいけどー。自主練くらいはちゃんとやるんだよー。明日、新曲やるって言ってたよー。」 遠くなっていくみゆきの声に手をひらひら振ると、僕は下駄箱に向かった。 全身が気怠く、足も腕も重い。 正直鞄を持っているのも辛い。 「やばい。これ、家にたどり着けないかも・・・」 大きくため息を吐き出すと僕はまた歩き出した。 ガラガラと扉を開けると、陽気な声が響き渡った。 「おかえり!王子君。早かったな!」 僕は声の主を一瞥すると、そこら辺に持っていた荷物を投げ捨てた後、白いベッドに倒れこんだ。 「無理。」 一言そう呟く。 「まぁ、そうだろうね。何せ今の君の体には半分の血液しか巡ってないわけだから当然の結果だろう。」 ガサガサとビニール袋を弄る音がする。 そして、スタスタとこちらに向かってきたと思うと、何かを口に突っ込まれた。 「ほがっ」 僕は突然口を塞がれてむせ返る。 乾いた口の中の水分が、それによって余計乾いてしまい、上手く咀嚼する事も出来ない。 「安心しなさい。ついさっきコンビニで買ってきたものだよ。」 そう言うとまたスタスタと向こうに歩いて行ってしまう。 「少し待ってなさい。温かい物を入れてあげよう。」 カチャカチャと手際よく食器を取り出すと、お湯を沸かし始めた。 「保健室っていうのはつくづく感心するね。何でも揃っている。」 自慢なのか感歎なのか分からない事を呟きながら、声の主はカップを手に取りベッド脇のサイドテーブルに運んできた。 「起きて飲みなさい。」 言われるがまま、僕はむくりと起き上がると、カップを手に取り口にする。 ようやく口の中で反抗していたクッキーと思しきものを胃の中に格納出来た。 手の中でカップの温かさがじんわりと伝わる。 温かなココアだった。 「太宰先生。今日はまだもう少し、ここで休ませて貰えませんか?」 「構わないよ。」 そこにあったパイプ椅子に座った太宰先生はニタニタとこちらを見ている。 「それにしても、啖呵を切って出て行った君が、こんなに早く戻ってくるとは思わなかったよ。」 「あれは、その、すみませんでした。」 そう、僕はあの後「あなたの息子なんかじゃない!」とか何とか言って保健室を出ていったのだ。 だけど、出て行ったものの、足はフラフラで思った以上に歩けなくて、自宅に帰るのを断念しノコノコと保健室に戻ってきてしまったのだった。 「まぁ、いいさ。俺たちの時間はたっぷりあるんだ。ゆっくり親睦を深めていけばいいよ。」 「あの、それなんですが・・・」 僕は思い切って続ける。 「僕はあなたの息子じゃないし、息子になるつもりもありません。」 膝に視線を落としたまま、僕は続ける。 「回復したら、もうあなたのお世話にはなりません。」 人間の生き血を啜る得体の知れない何かとなんて仲良くする気は全くなかった。 僕は普通の人間として、普通に生きていきたい。 それに、今の両親を大切にしていきたい。 「いいよ。」 僕の予想に反し、肯定された返事が返ってきた。 僕は思わず顔を上げる。 「何でそんなに驚くの?俺は今の生活を捨てろだなんて一言も言ってないよ?」 フフフと太宰先生は笑う。 「今のまま、君のやりたい生活を続ければいいよ。歩みたい道へ進みなさい。」 僕はじっと、太宰先生の顔を見る。 いつものニタニタ顔が映る。 「僕は一体何なんですか?人間なんですか?」 いつもの生活を続けろという解答は僕の意思が尊重された訳だけど、歩くこともままならない今のこの体にされた後では、あまり納得のいく答えではなかった。 それに、太宰先生に殺されなかったとしても、仲間が殺しに来るって言いませんでしたか? 「そうだな。簡単に言えば君はもう吸血鬼になった。君の定義する人間とは言い難いな。」 思案顔で太宰先生は続ける。 「だけど、吸血鬼と言っても、人間と生活形態は変わらない。現にこうして俺も人間社会で生きているしな。」 そして、クツクツと笑いながらなおも続ける。 「よく考えてごらん?ミッションスクールの保健医の正体が、実は吸血鬼だろ?笑っちゃうよな。毎朝礼拝まで受けているんだぞ?」 フフフと笑う太宰先生の顔を見ながら、僕は目からうろこな思いでいた。 僕のなんとなく知識で持っていた吸血鬼のイメージは、夜に徘徊するイメージで、人知れず生活しているというものだ。 そして、教会は絶対的な対立相手で、吸血鬼は十字架に触れることも出来ない。 はずだと思っていた。 だけど、どうだろう? 太宰先生はといえば、毎朝礼拝堂の教員席に座り聖書を捲り、牧師の話を聞き、讃美歌まで歌っている。 僕は開いた口が塞がらなかった。

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