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第32話
僕は、再び保健室のベッドの中に収まっていた。
顔だけベッドから覗かせながら、先生を見上げる。
先生は腫れていない方の腕で、僕の頭を撫でている。
もう片方は、相変わらず僕の手に添えられていた。
「・・・すみません。」
僕は再び謝る。
僕から見えない位置に移動してしまった先生の腕は、きっと腫れ上がっている。
僕の謝罪に対し、先生は顔色ひとつ変えず、ただ優しく微笑むだけだった。
逆にそれが、胸を締め付けられるようで、痛い。
「血を啜るのは初めて?」
柔らかな声音のまま尋ねられる。
僕は返事の代わりに、こくりと頷く。
「そう。俺が君の初めてになれて嬉しいよ。大丈夫。徐々に慣れて、上手になっていくさ。」
僕は無意識に、先生に握られていた手に力が入った。
次のことなんて考えたく無いし、したく無かった。
「僕はもう、血を啜りたくなんてありません。」
遂に僕は、僕の言葉で血を啜った事を認めた。
認めてしまった。
急に目頭が熱くなる。
僕は目を閉じた。
何であんなにも欲しいと感じたんだろう。
今までそんな風に感じた事は一度もなかったはずだ。
だけど、突然人間のままではいられなくなってしまった。
頬を柔らかな先生の手に撫でられた。
「大丈夫、気にする必要はないよ。今回の事はカウントしなくてもいい。君自身の生きる為の本能がそうさせただけだ。俺の血は、君の血だからな。当然さ。」
先生はいつになく優しい口調で僕に語りかけてくる。
僕は苦しくて堪らなかった。
「でも、もしまた噛んでしまったら。僕はそんなつもりなんて全くなかった。なのに。」
僕は口を噤んだ。
ぐっと下唇を噛み締めると、先生の血と同じ味のするものが口の中で漂った。
「そしたらまた、好きなだけ啜りなさい。」
優しい口調で僕を諭し続ける。
「俺はいくら噛まれたって構やしないよ。全身青痣だらけにしてくれるなら、それは本望さ。」
くつくつと笑いながら、楽しそうに言う。
僕は目を薄っすらと開ける。
目の前が霞んでいても、先生の笑顔を見つけられた。
僕の中で新たな感情が生まれたのはこの時だった。
広い海のさざ波のように、絶え間無く寄せてくるこの気持ちは一体何と呼ぶのだろう。
その波間にぷかぷかと浮かぶ僕は、全身を擽られ続けている。
緩やかに、でも確実に、僕は包まれ飲み込まれてゆく。
とぷん、と耳元で音が鳴った気がした。
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