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第85話
一昨日カラスが言っていた。
あんが脱走した、ってことを。
僕はそれを聞いても、半信半疑でいた。
何処かで僕を狙っているかもしれないという恐怖を感じていたのが、今、確かな現実として突き付けられた。
僕は行かない方がいい。
行ったら確実に殺られる。
みゆきには、なんて断ろう。
何て返信しよう。
人差し指が震えて、上手く画面をタップ出来ない。
再びリーネがピロンと反応した。
僕は硬直する。
僕への個人宛だった。
『太宰教諭の秘密を公にされたく無くば、必ず明日来なさい。』
数秒だけ見えたメッセージを、僕は既読に出来なかった。
背筋が凍りつくのが解った。
あんに、バレてる?
だけどここで聞いたら、認めた事になってしまう。
かといって、完全に無視も出来ない。
先生をチラりと盗み見る。
真剣な表情で、何かを走り書きしている。
どうしよう。
相談すべきだろうか。
いや、僕が先生を守らなきゃ。
きっと相談すれば、先生は行くのをやめるように言うに決まっている。
でも行かなかったら、先生の命が危ない。
相手の目的が、僕であれ、先生であれ、選択肢は一つしか残されてはいなかった。
それに、会うのはあんだけじゃない、みゆきも一緒だ。
きっとみゆきの前で、あんは僕に手を掛けたりはしないだろう。
それともう一つ。
一度は捕まっていたのだから、先生の秘密をバラそうと思えば幾らでもバラす機会はあった筈だ。
それを誰にも言わずに脱走し、態々捕まるリスクを冒して僕に連絡を寄越してきたのだ。
あんは僕よりも一枚も二枚も上手な人物なのは、前回の件で明白だった。
この事を元老院に話してあんを捕まえたとしたら、あんが先生の秘密について口を割らないとは限らない。
そうなったら、先生は助からない。
僕は、なんとしても相手の要件を聞く必要があった。
先生の為に。
僕の為に。
僕はリーネの画面を再び開いた。
個宛メッセージを開く。
『解った。必ず行くよ。』
必ず守ってみせる。
向こうを見ると、先生は相変わらずペンを走らせながら、真剣な表情でパソコンを叩いていた。
それからふぅと息をついて、カップを口に運んでいる。
なんて事ない、いつもの日常の一コマに僕は暫く魅入ってしまう。
先生が顔を僅かにこちらに傾けて、僕を見つけるとふわりと笑った。
僕は目が離せなくなる。
じっと見つめていると、先生は立ち上がりこちらに向かって歩いてくる。
それから、僕の背後に回り、そうっと肩に腕を回される。
僕はまた先生に抱き竦められた。
耳元で先生が囁いてくる。
「プリント終わった?」
「はい。」
僕はその声に蕩けそうになりながら返事を返す。
ぼくの肩を抱き竦めた先生の白い手首が、僕の首に触れている。
温かくて気持ちがいい、先生の腕。
僕は顔を傾けると、その手首に牙を立てた。
口の中にゆっくりと鉄の味が広がってくる。
僕は朦朧としながら、先生の血を啜ってゆく。
温かくて気持ちがいい、先生の血。
先生の低い呻き声が、耳元で小さく聞こえる。
ゆっくりと、僕は喉を鳴らしてゆく。
あれ?
気付くと僕は、凄い勢いで先生を突き飛ばしていた。
先生は、床に倒れて蹲っている。
僕は口元を拭う。
ベッタリと真っ赤な血が、右手の甲に塗りつけられた。
先生を噛んだ?僕が?
僕は出来るだけ、先生から距離を置く為に後退る。
「僕に触らないでっ。」
僕は自分が怖かった。
さっき、突然理性が吹き飛んだ。
まるで何かに操られていたみたいに何の躊躇いもなく、先生を噛んでいた。
2度と噛みたくないと、あれ程強く願っていた筈なのに。
僕はどうしてしまったんだろう。
僕は僕の意思をコントロール出来なくなっている。
突然の事だった。
本当に突然、理性が消えた。
「先生っ、ごめんなさい。突き飛ばしたりなんかして。だけど、僕に触っちゃ駄目だ。」
僕は自分の状況を自分で把握出来ないまま、先生に頼んだ。
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