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第91話

僕らは公園のベンチに座って先生が迎えに来るのを待っていた。 僕は、非常事態であるとはいえ、申し訳ない気持ちで一杯だった。 そもそも、僕がみゆきとの約束を断っていればこんな事にはなっていない。 それなのに、仕事がある先生をこんな朝早くから呼びつけてしまったのだ。 さっきからずっと、なんて謝ろうかと、そればかり頭の中で練り回している。 隣に居るあんも、僕の腕を掴んで離さないものの、退屈そうにしていた。 というか、疲れてる? 「あん、飲物買って来るから、ちょっと待ってて。」 そういえば、日差しも強く地面が燃えるように空気を揺らめかせている。 日陰のベンチを選んだとはいえ、所詮気休めにしかならない。 僕が立ち上がろうとすると、あんがひっしと僕の腕を掴んで離さない。 「そう言って逃げるつもりなのね。そうは行かないわ。」 僕は小さく溜息をついた。 そうは言っても、人質を取っているあんが倒れたら、元も子もないだろうに。 僕は僕で、先生に電話した時点で逃げる気持ちを失くしていた。 例え逃げたところで、あんが元老院に捕まってしまえば、先生にとっても思わしくない。 あんも、僕を無闇に傷つけてくるつもりは無いらしいことも、分かっていた。 「そんなこと言ったって、何か飲まなきゃ熱中症になっちゃうだろ。それこそ僕に逃げる隙を作っちゃうんじゃないの?」 僕は半ば呆れた声で、あんに問い掛けた。 あんは、少し考えると僕に指示してくる。 「私のバッグにペットボトルが入っているの。それを取り出して。」 僕は自由の効く右手であんの鞄を弄った。 左手は相変わらずあんにしっかりと抱きかかえられていて、注射を突き付けられた状態のままだった。 僕は言われた通りペットボトルを取り出した。 「見つかったのね。じゃ、蓋開けて私に飲ませなさい。」 僕は驚いて振り返った。 「自分で飲まないの?」 するとあんはすかさず答える。 「飲める訳ないでしょう?こうしてあなたの腕を抱えているのよ?早く飲ませて。」 僕は仕方なくあんの我儘を聞く事にした。 ほんの僅かに動かせる左手も使い、上手い事蓋を開けてあげて、あんの口に運んでやった。 あんは、薄紅色の唇を開き、ペットボトルの淵を僅かに咥えると、こくこくと喉を動かしてゆく。 僕は、器用なもんだなと、あんの口にペットボトルの水を注いでやりながら思った。 それにしても、間近で見るあんの横顔は美しい。 綺麗に整えられた目鼻立ち、それを黒い睫毛が縁取り、頬が桜色に色付き、唇は薄紅色だ。 誰が見ても、この少女のことは美しい、或は可愛いと形容するだろう。 長い睫毛は何処と無く、先生に似ている。 艶具合やハリ具合がそっくりだ。 「けほっ・・・、けほっ、ちょっと!気を付けなさい。」 あんの怒声に気付いて視線を周囲に広げると、あんが涙目でこちらを見ている。 「あなた真面目にやりなさい。あなたのせいで噎せてしまったじゃないの!それにこんなに零して!」 僕は慌てて傾けていたペットボトルを水平に戻した。 よく見ると、あんの口からは水が溢れて滴り、首筋を濡らして、胸まで伝い行方を眩ましていた。 「ごめん、大丈夫?」 僕は慌てて謝る。 「大丈夫な訳ないでしょう?こんなに零して。大方、私に見惚れていたんでしょうけれど。人質だってこと、もっと自覚を持ってもらわなきゃ困るわ。」 「そうだね。ごめん。あんは綺麗だよ。今日もとっても可愛い。」 僕は至近距離のまま、あんに言葉をかけた。 あんは少し驚いた表情をしたかと思うと、ぷいと向こうを向いてしまった。 「あなた、女の子だったら誰にも彼にもそんな事言ってるのね。全く罪作りだ事。」 「え、言わないよ?多分あんが初めてじゃないかな。僕の初めての彼女だった人だし。」 あんが横目でキッと睨みつけてくる。 僕、何かマズいこと言ったかな? 「あなたね。この私を先に振っておいて今更生意気な事言うんじゃ無いわよ。」 そう言うと、あんは僕に絡めていた腕を緩め、自分のバッグから煙草を取り出し火を付けた。 「えっ、あん!駄目だよ。君はまだ高校生だろ?体に悪いよ。」 すると呆れたような顔をして、あんはこちらに振り返る。 それから僕の顔目掛けて、煙を吹き掛けた。 僕は思いっきり吸い込んでしまい、噎せてしまう。 「私に生意気な口聞くのはおやめなさい。私を何歳だと思ってるのよ。高校生?鼻で笑っちゃうわ。」 あんは再び正面に向き直ると、ふぅと一筋煙を吐き出した。 「えっ、あんは一体何歳なの。」 僕は噎せた呼吸を整えて問い掛けた。 あんは横目でギロリと僕を一瞥すると、鼻を鳴らす。 「あなた方より、私はずっと先輩よ。もう200歳は超えてしまったかしらね。分かったら身の程を弁えなさい。」 「200?!」 僕は思わず大きな声を出してしまった。 先生の時も驚かされたけれど、あんのこの容姿と実年齢にはギャップがあり過ぎる。 「まぁ、無理も無いわね。このまま行くと、私は吸血鬼界で最高齢記録を更新出来そうよね。最も、捕まって死刑にされなければ、だけど。」 そう言うとあんは、ころころと笑った。 「あなたなんて、産まれて間もないヒヨッコちゃんじゃない。目上に対する態度を改めるべきよ。」 僕は、にわかには信じられなくて、ついあんの横顔を凝視してしまった。 どこからどう見てもおばあちゃんどころか、大人にすら見えない。 吸血鬼の力は驚異的だと、改めて実感した。

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