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第112話

翌朝、目が覚めたのは午前8時だった。 僕は久しぶりに寝坊した。 多分夏休みに入ってから初めてだと思う。 ぼんやりとしながら、僕は枕元のスマホを手に取った。 起きたばかりなのに、心臓が緊張している。 ロックを解除して、スマホを確認する。 けれど、半分ほっとして、半分寂しくなるだけだった。 僕は期待していたのだと気付いた。 心にどんよりと雲がかかる。 確認したスマホには、先生からの着歴は無かった。 会いたかった。 やっぱり、会いたい。 僕はいつもより遅めの朝食を摂ると、制服に着替えて電車に乗った。 今日も特別、これといって予定は無かった。 予定を入れる気にもなれなかった。 学校の最寄駅で電車を降りると、ぶらぶらと歩きながら学校に向かった。 学校に着いても、別に何かをする予定なんて何もない。 正門を潜り校庭に出ると、陸上部の覇気のある声に励まされるような気がして、少しばかり気分が上がる。 僕はいつもの正面玄関を避け、中央棟西側の保健室の傍まで歩いてゆく。 僕が学校に来た事に、先生は気付くだろうか? 僕は保健室の校舎横を素通りする。 そしてそのまま北校舎の図書室へと向かった。 少し重量のあるドアを押し開いてからはたと気付いた。 そういえば、上履きに履き替えるのを忘れていた。 今更、教室まで戻り、自分のロッカーから上履きを取り出すのも面倒に思い、来客用のスリッパを勝手に拝借する。 怒られるかな・・・? 靴を北校舎一階の玄関の来客用下駄箱に置き、スリッパに履き替えて、図書室の扉を開けた。 向こうの机で自主学習している生徒が数人見えた。 僕も例に習い、会いている席に荷物を置くと、そびえ立つ本棚に向かって歩を進めてゆく。 この学校は無駄に本も多かった。 きっと、年に一回生徒が手にすればいいだろう、というくらい誰も読まないような本まで棚に整然と並び、ずっと奥までズラリと聳え立っている。 僕は特に目的もないまま本を物色した。 なんとなく、トルストイのアンナ・カレーニナを手に取ると、自分の荷物を置いてきた席に戻る。 正直、まだ僕には少し難しいように感じられたその本は、けれど、無理に読み進めているうちに物語に没頭してゆく。 そこでやっと、僕は虚ろいでいた気持ちが解放されていった。 別に熱中できれば本なんて何でも良かったのだ。 先生の事を考えない、その時間を作る為の物だったのだから。 それ以上でも、それ以下でも無かった。 僕は主人公に成り済まし、主人公を演じた。 お昼のチャイムが鳴って、僕は我に返った。 熱中し過ぎて時間の経過を忘れていて、気付くと時刻は12時40分を指している。 お腹も空いたしご飯にしよう。 図書室は飲食厳禁なので、途中まで読み進めた本を元の棚に戻す。 別に借りてしまっても良かったのだけど、このぶんなら今日中に読み終わりそうだし、それに、あの本は誰も借りないだろう。 僕は荷物を纏めると席を立った。 外に出ると陽射しが強く痛いくらい僕を照らした。 右手で顔を覆い陽を避ける。 それから、左側の校舎の一階角を見つめる。 先生、何してるだろうな。 一瞬僕は躊躇い、けれど隠れるようにして中庭の木々に紛れ込んだ。 あの日、アンに刺されたのと同じベンチに腰を下ろし、来る途中で買ったサンドイッチを取り出しモクモクと食べ始めた。 それからお茶を飲み一息つく。 中庭には僕以外誰も居ない。 時間がゆっくりと流れてゆく。 僕はベンチに横になった。 流石に暑かったけれど、図書室ではこうはいかない。 図書室は冷房が効いてて快適ではあるけれど。 最近、一気に色んな事があり過ぎたな、と息をついた。 特に心が忙しかった。 高校生になって、この一ヶ月くらいの間に、急に一気に色々経験した。 中学生の頃には既に、ぼんやりとではあるけれど人並みに恋愛をしてみたいな、とは思っていた。 恋愛って、甘くて楽しいものだと信じていた。 彼女と学校帰りに一緒に帰ったり、手紙を交換したり、休日には遊園地に遊びに行ったりするものだと思っていた。 でも、実際の僕の恋愛は、想像してたものとは全く違うものになった。 そもそも、彼女じゃない。 彼氏?になるのかな? 先生と生徒という立場の関係上、堂々とも出来ない、隠れて誰にも見つからないように、気づかれないように、こっそりと好きでいることしか出来ない。 甘いと思っていた事だけは正解で、楽しいと思うより苦しいと思う部分の方が大きい。 何処かで堂々とデートすることは、出来ない。 けれど、それでも、人並みじゃない、平均じゃない、普通じゃない、そう言われたとしても、やっぱり僕は先生の事が好きなのだった。 それは、変える事が出来ない。 何が、何処が好きか?それもよく分からないけれど、大切な人になった。 僕はもしかしたら、さっきまで読んでいたアンナのように舞台で踊らされているだけかもしれない。 人並みじゃない、平均じゃない、普通じゃない、でも、僕はアンナのように自分の気持ちに素直に生きれたらと思う。 まだ最後まで読んでいない本に想いを馳せる。 結末はまだ、知らない。 この気持ちを抑える術を僕は知らない。 初めての恋に、自分なりに当たってゆくしかない。 苦しいだけじゃない、楽しくいられる方法を考えよう。 いつでも楽しいなんて有り得ないけれど、楽しい時間を増やそうとする努力は必ず必要なものだ。 そして、そこに擽られて蕩けてしまうような甘さがあるから、恋になるのだと思う。 難しいな。 頭が痛くなってきた。 今日の夕方に、先生に電話してみよう。 それまでに、何を話すのか考えておかなくては。 楽しく居る為に、何が必要か、どうすべきか、考えよう。 まずは、何か行動を起こさない事には、何も、どうにも、ならないのだから。

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