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第117話

午後になり、三時を過ぎると先生が学校から帰ってきた。 僕の心は相変わらずザワついていて落ち着かない。 先生の事が好きなのは確かなのに、どんな風に接すればいいのか分からなくなっている。 アンは相変わらずマイペースで、先生が帰ってきて早々、お茶のおかわりとお煎餅を催促していて、我儘を言っている筈なのに、それが可愛くて羨ましいとさえ思ってしまった。 あんな風に僕も先生に我儘を言ってみたい。 自分に出来ない事を、他人が簡単にやってのけてしまうと羨ましいと思ってしまうのは何故だろう。 アンはきっとそんな事、何も考えていないに違いない。 だから余計、先生に命令と言うお強請りを簡単にやってのけてしまうアンが、今は可愛く思えて仕方なかった。 先生は疲れた顔をしてるけど。 「わかった、わかった。夜には王子を送りに外出するから、そのついでに買ってきてあげるから。それまで少しは我慢しなさい。」 「全く仕方ないわね。割れ煎お徳用がいいわ。あと堅焼きと歌舞伎揚も宜しくね。」 アンは渋々了承したようで、向こうのソファに戻っていった。 「王子、おいで。」 僕は先生に右手を捕まえられた。 それから、緩く引かれる。 僕は恥ずかしくて、思わず向こうのアンを確認すると、アンは黙ってテレビをつけて音量を上げている最中だった。 僕は先生に手を引かれながら、その横を通り過ぎ、寝室へと連れ込まれた。 背後で引き戸が閉まった。 捕まえられた僕の右手から、身体中に熱が運ばれていく。 それだけで、全身が痺れていくのが解った。 僕は無言で先生に連れられてベッドに上がる。 向き合う形で座り、先生の手が僕に伸ばされて頬に触れ、首筋をなぞらせ、肩を通り、ゆっくりと腕を撫でていく。 僕はその柔らかな指の動きに呑まれて既に蕩けそうになっていた。 僕にとって、先生という存在そのものが刺激物になってしまっている。 僕のTシャツの中に先生の指が入ってきて、脇腹のあたりを撫でられた。 「んっ。」 僕から小さな溜息が漏れてしまう。 擽ったいような、気持ちがいいような、その刺激が瞬時に全身を駆け抜けていく。 僕から力が抜けたのを確認するように、腰に手を添えられて先生にゆっくりと押し倒された。 僕からとても近いところに先生が居る。 このまま少しでも僕が頭を浮かせてしまえば、簡単に先生とキスできる位置だ。 ベッドに押し倒された僕の頭上で、先生の腕が組み直される。 僕は伸し掛かる先生の下で僅かに身を捩り、首を横に振った。 「どうした?」 先生がそんな僕に気付いて尋ねてくる。 「っ、まって、せんせ。教えて欲しい事、が、あります。」 「なに?」 先生の甘い息が、僕の顔に降りかかる。 「僕に隠して居る事、ありませんか?」 僕は横を向きながら、先生の顔をチラリと覗き込んだ。 「ないよ。」 僕は困惑する。 先生の眼は僕を真っ直ぐ見詰めている。 僕は溜息とも取れるような呼吸を身体全体でしながら、続ける。 「キスの、意味を・・・。」 「知りたいの?」 先生は動じる事なく、右耳に顔を近づけながら甘い声で僕の問いに受け答える。 僕は溶けそうになりながら、頷いてみせる。 先生は柔らかく笑っている。 「大人になったら教えてあげる。それとも、意味を知らなければ、もう俺とはキスしたくない?」 甘い声で、囁くように言われて、なんて狡い人なんだろうと思った。 僕の耳が先生の呼吸のせいで、じんわりと湿り気を帯びている。 そんな風に言われたら、したくないなんて、言える訳ないのに。 「・・・したい。」 僕が答えると、耳元にあった先生の顔が僕の正面に降りてきて、唇を塞がれた。 それから、僕の中に先生が入ってくる。 先生に絡め取られて、僕は呼吸の自由を奪われた。 「・・・んっ、ふぁ。」 不規則に出来る僅かな隙間を見つけては、僕は空気を吸い込み先生の口の中に吐き出してゆく。 先生はそれでも構うことなく、僕の奥まで入り込んでくる。 「はぁっ、ふっ、・・・うんっ。」 それから、ゆっくりと抜かれてゆくと、僕らは啄ばむようにキスを繰り返した。 「んっ、んん。」 僕は先生の背中に手を回し、両手の指の腹で肩甲骨の辺りをゆるゆると刺激する。 すると、先生の瞳が潤み始めてくる。 揺れる瞳は、とても綺麗だった。 「せんせ。先生は意味を知ってるの?」 僕は先生に尋ねる。 「知ってるよ。君はきっと、この事をアンに聞いたんだね。」 僕の直ぐ側で、先生が緩く言葉を話す度、甘い息が降りてくるのを顔に感じる。 「はい、でも意味までは教えてもらえませんでした。」 キスをしてしまった後で、知っても知らなくても同じことかもしれないけれど、僕は不安と好奇心に勝てそうには無い。 どうして今教えて貰えないのだろう。 「せんせい。今教えたくない理由は何ですか?」 僕が尋ねると、先生は困ったような顔をした。 「俺のエゴだよ。俺は君を独り占めしていたいから、まだ君に何も教えたく無い。他の事も全部ね。」 分かったような、解らないような、そんな解答だった。 吸血鬼の色々を知ったら、僕は先生のものじゃ無くなってしまうのだろうか? 「教えたら、僕が先生のことを好きじゃなくなると思ってるから、ってこと?」 「少し違うかな。俺の側から居なくなるかもしれない。とは、思っている。」 僕はキスにどんな意味が有ろうとも、先生の側から離れたりしない根拠の無い自信ならある。 吸血鬼だし、同性だし、っていう時点でこれ以上のハードルなんて存在するだろうか? 既にここをクリアしてしまったので、先生をずっと好きでいるであろう自信なら十二分にあるのだ。 もしも、心変わりがあるとしたら、きっと僕じゃないと思う。 「先生が僕を避けるようになるんじゃなくて?」 すると、急に先生の眉間に皺が寄った。 「そんな訳ないだろ。・・・悔しいな。」 先生はそれだけ言ったかと思うと、僕の肩に顔を埋め、僕の体をぎゅっとキツく抱き締めてきた。 僕は少しの身動きも出来ないほど、先生にキツく締め付けられている。 そして、先生の体温は燃えるように熱くなっている。 あれ、これもしかして、先生、泣いてる? 「先生ごめんっ。ごめん。疑って御免なさい。」 僕は慌てて謝った。 まさか、こんなに先生が傷付くなんて思わなくて、僕は僕の迂闊さに腹が立った。 あれ程、僕は先生の気持ちを知ってた筈じゃ無かったのか。 「ごめんなさい。もう二度と疑ったりしません。ごめんなさい。」 僕の体が、先生から徐々に解かれていく。 と、思ったらぐっと力任せにキスされた。 歯と歯が当たり、口の中に血が滲む。 でも、それで先生の気が済むなら、それも良いかなと、どちらの体から滲み出てきたのか解らない先生の血の味を感じながら思った。

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