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第119話

何故か僕はお風呂のバスタブの中に居た。 そこに自分の意思は無い。 気づいたら先生の背中に担がれるようにして裸のまま移動し、お湯の中に入れられていたのだ。 多分タオルじゃ拭いきれなかったんだと思う。 あまりに僕が動けないでいた所為だ。 けれど、裸のまま移動したってことは、やっぱりアンに見られたに違いなくて、今度こそ言い訳が通用しない状況を作ってしまっていた。 これだけ証拠らしい証拠を集めてしまっては、流石に僕も諦めざるを得ない。 アンの質問攻めから、生き残れますようにと祈りを捧げるだけだ。 主よ、我を救いいだしたまへ。 ・・・別に信じちゃいないけど。 それはそうと、先生が僕の入っているバスタブの淵で、額に汗を滲ませながら僕の体を洗っている。 この人は一緒にお風呂に入るつもりは無いみたいで、服を着たままだ。 そりゃ、汗も出ますよね。 入っちゃえばいいのに。 多分アンに見られるのが嫌なんだろうなぁ。 僕のことは平気で裸のまま担いできた癖に。 アンに見られたく無い部分とか、見られたかもしれないのに。 せめてタオル巻いてくれれば・・・、ずり落ちてあんまり意味はないだろうけれど。 文句の一つも言いたいのに、丁寧に僕の身の回りの世話をしてくれるので、そんな事言えるはずも無く。 僕は何も言わず、先生に甘え続けた。 僕はぼんやりと目を閉じた。 気持ちいい。 過剰な反応を示して緊張を走らせていた身体が、柔らかなお湯と先生の指にほぐされてゆく。 息を吐くと寝てしまいそうだった。 それから、あの時みたいに滑らかな先生の背中にもう一度触れたいなと思った。 お風呂から上がっても先生の世話は続いていて、身体を拭かれ、服も丁寧に着せられた。 下着は新しいものだから大丈夫だよ、とか言われながら。 すっかりサッパリしてリビングに戻ると、意外な事にアンは涼しく何食わぬ顔で漫画を読んでいた。 驚いている僕に、いつの間に準備したのか、先生が氷の入った麦茶を渡してくる。 「えっ、作らないでくださいって言った筈なのに。」 僕がそっと先生に話しかけると、先生が僕に顔を近づけて耳打ちする。 「いいんだよ。アンが命令口調で君を呼び寄せたけれど、俺も来てくれるの待ってたの。あとこれ、俺が準備したんじゃない。」 「え?」 「ほら、あそこの女帝様がね。」 先生が悪戯っぽく目配せする。 「君が来るのに、何を用意したら喜ぶか聞かれたから、いつも君が飲んでたものを教えてあげたの。」 僕は驚いて向こうのアンの方を見た。 彼女は相変わらず漫画に夢中になっている。 「この事は秘密だからね。喋ったのバレたら、後で俺が殺されちゃう。」 先生はふふっと楽しそうに笑う。 いつも上から目線で頭が上がらない僕なのに、アン自ら準備してくれていたと知って、嬉しくなった。 そういうところ、やっぱり可愛いと思う。 「でも、君は俺のものだから。アンのところに行っては駄目だよ。」 先生が僕の耳元で囁く。 「先生、もしかして焼いてるの?」 「そうだね。」 なんだこの人。 この人も大概可愛いじゃないか。 無自覚天然が多いなぁ。 「大丈夫だよ。僕が好きなのは先生だってこと、さっきだって確認したばかりでしょ?」 「そうだね。」 僕はアンから隠れた位置で先生の手を捕まえる。 先生も僕に合わせてくれて、お互いの指を絡ませた。 擽ったいこの気持ちが、きっと、僕の手を通して先生に伝わってくれてると思う。 僕は息を漏らすほど、幸せだななんて、思ったりして。 慣れてしまえば、この生活、案外楽しいかもしれない。 アンが居てくれることで、心地良く丁度いい緊張感が生まれてくれる。 先生と何かあって相談できなかったとしても、アンがそこに居てくれるだけで、気持ちも安定していられる。 普段我儘なのに、今の様に時に優しさが見えたりすると、また我儘聞いてあげようかななんて思えてしまう。 そんなアンに先生がヤキモチを焼くから、先生の事を可愛いなと思う僕がいて、僕は先生が好きなんだなと確認させられる。 黄昏色の甘く柔らかな空気が、先生の広くもないアパートの一室にふんわりと充満していくのが見えた気がした。

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