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第129話
暫くアンと僕はこう着状態に突入したが、アンの一言で再び世界は周り出した。
「でも、うん、そうね。確かにあなたを攻めにするまではいかないけれど、襲い受けにするのは有りよね。」
ぼそりと呟き、アンは独り言つとレポート用紙に向かってペンを走らせ始めた。
僕はやっと、安堵する。
何言ってるのか全く分からないけれど、多分僕は戦争回避に成功した。
もう二度と、リバ星人との戦争の戦線に立たされたくありません。
ウイルスの恐怖に怯える生活から脱却したいです。
アンが丸くなってきたなんて、そんな事、少しでも感じたなんて僕が間違っていた。
全然元気じゃないか。
これだけの創作意欲があるなら、まだまだ暫く快活だろうと思う。
良かった。
急激に落ち込まない事を祈ろう。
僕は気付かれないようにそっと、大きく息を吐いた。
アンの新作を先生に読ませたら、どんな顔をするんだろう。
ちょっと読ませてみたい気もする。
先生の反応に興味がある。
でも、きっと怒るんだろうなぁ。
それとも、呆れて凄く嫌そうな顔をするのかもしれない。
僕と先生だけの話だったら、どんな反応するのだろう。
赤面したりするのかな。
僕と共に、物語を実際になぞらせたいと思うかな。
それとも、笑い飛ばすかな。
どんな反応を示すのか、凄く興味がある。
興味はあれど、だけど、やはり見せる事は出来ないなと思った。
僕がそうであった様に、先生が喜ぶとは限らないから。
喜ばないことは、したくない。
だから、秘密のままでいい。
僕がアンの為にお茶を淹れてソファまで戻ってみれば、アンはいつの間にかソファの上でくったりと、身体を横にして伏していた。
コトリとローテーブルに湯呑みを置くと、声を掛ける。
「お茶、淹れましたよ。」
「・・・ん。」
アンの身体がゆっくりと動かされ、気怠そうな顔が僕を見上げてきた。
陰鬱な瞳が覗く。
が、再び顔を伏した。
僕は心が騒ぐのを感じていた。
いつもなら、遅かったわね、などと小言を漏らした後、直ぐに一口口を付けると、まぁまぁね、などと評価をする。
けれど、それが無い。
いつもと様子が違う。
「アン、ちょっといい?」
僕はアンが何か言うのを待たずに、アンのソファの下に腰を下ろすと、額に手を差し入れた。
別段異常は無い。
「なに?」
アンが怪訝な声で尋ねてくる。
「いや、具合悪いのかと思って。でも、熱は無さそう。」
「馬鹿ね。」
アンが僕を罵る。
けれど、いつもの覇気は全く無かった。
「吸血鬼が病気になる訳ないでしょ。基礎中の基礎でしょうに。」
ブツブツとソファに顔を伏したまま、アンは念仏でも唱えているように、淡々と言葉を発した。
「私は健康よ。」
でも、と僕が口を開き掛けると、アンが身動ぎ、顔だけこちらに向けた。
虚ろな瞳が覗く。
「病気なんかじゃないわ。けれど、血が足りない。」
「血?」
そういえば、僕は今まで殆ど気に掛けなかったけれど、アンは吸血鬼なのだ。
そして僕も吸血鬼。
けれど、僕は人間の血を啜った事はない。
血と言えば、先生の血なので、欲しいと思えば、先生に伝えれば直ぐに貰える状況だった。
だから、アンの事は完全に見落としていた。
ここで軟禁生活を始めてからは、きっと飲んでいないのだ。
吸血鬼は血を飲まなければ、寿命が延びないだけで生きてはいける筈だから気にしていなかった。
「ごめん、僕には準備出来ないよ。けれど、飲まなくても平気じゃないの?」
アンは朧げな瞳のまま、僕をじっと見つめているようだった。
「そうね。あなたの言う通りよ。けれどそうじゃないのよ。私にとっての血液は、もうそれじゃない。」
「どう言う事?」
寿命を延ばしたいから、人間の血を啜っていたんじゃないの?
それとも、美容の為?若さを保つ為?
アンは短く息を吐くと、話し始めた。
「わたしレベルになると、もう寿命なんて殆どどうでもいいのよ。そうじゃないのよ。例えば人間がお酒やタバコをやめられないのと同じ。」
「えっ、それじゃぁ。」
「そうよ。寿命を延ばした吸血鬼は、大体、血液依存症になっているわ。止められないの。人間の血を啜る事を。」
僕はお酒も飲まなしい、タバコも吸わない。
だから、依存症が何なのか体感した事はない。
けれど、知識としては知っている。
お酒、タバコは勿論、ドラッグやパチンコ、ネトゲ、SNS、今の世の中には多種多様な依存の危険を孕んでいる。
けれど、依存症とは一見無縁に見える僕でも、一つだけ気掛かりはある。
先生の血だ。
先生の血を啜る事は、まだ指折り数える事が出来る程度にしかない。
それなのに、僕は既に、先生の血の虜になってしまっている。
僕は、その理由は先生の事が好きだから、だと思い込んでいた。
しかし、依存症では?という問いを完全に否定出来るとは思えなかった。
僕でさえそんな状況にあるのに、アンの年齢を考えれば、血液依存症になっていてもおかしくない。
そうやって200年以上、生きてきたのだ。
ところが、急に飲めなくなったとすれば、体に変調をきたしてもそれは、至極当然と言って良いと思う。
いや、体に、ではないのだ。きっと心なのだ。
きっと、心が形を保てなくなってきているのだと思う。
けれど、原因が解っても、やはり僕にはどうしてあげる事も出来なかった。
「わかった、アン。先生が帰ってきたら相談してみるよ。アンが言いにくいなら、僕がこっそり聞いてみるから。」
僕はアンの頭を撫でた。
柔らかな髪が、僕の指の間を滑った。
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