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第133話

今日は、僕は先生の家ではなく保健室に来ている。 アンの事は心配だけれど、心配だからこそ、早期解決の為に動かなければならないのだ。 きっと今日も先生を口説きにネコがやって来る筈だ。 その場に僕もいた方が話が早く纏まるだろうという事で、保健室に待機している。 先生はいつものデスクで事務仕事をしている。 僕は図書室で借りてきた赤と黒を読んでいた。 読み進めているものの、全く頭に入って来ない。 もっと簡単そうなのを選べば良かったかなと、今更ながらに後悔している。 時間を潰すのにもってこいだと思ったんだけど、それでも上下巻ある本を選ばなければ良かった。 僕にはまだ難しくて、読むのに凄く時間が掛かってしまう。 そういえば、この本はアンは読んだ事があるだろうか? この本なら彼女の暇潰しの一助となるに違いない。 先生の家に持って帰ろう。 そんな事をぼんやりと考えては、読み進めていると、着実に時間はどんどんと流れていく。 午後になりご飯も食べてしまうと、先生が立ち上がり、窓の外を覗いては、デスクに戻って事務仕事をするということを繰り返し始めた。 恐らくはネコが来ないか探しているのだ。 そんな先生の様子に、僕までもソワソワと落ち着かなくなってくる。 今日はネコが現れるだろうか。 「何を読んでいるのですか。」 「うわあっ!」 突然不思議な声に話し掛けられて、僕は思わず叫んでしまった。 先生が驚いた顔をして、向こうの窓際からこちらに振り返っている。 僕は声の主を探す為に辺りをキョロキョロと見回した。 けれど、僕の探している声の主の姿が見つからない。 何処にも姿がない。 「上ですよ。」 言われて上を見上げると、カーテンレールのカーブの上に、紅い目をした黒い塊が丸くなっていた。 いつの間にどうやって、音も立てずに侵入し、そんな所まで登ったのか。 しかも、こんなにレールは細いのに、この運動神経は普通の猫じゃない。 僕が硬直し何も言えないでいると、ネコは楽しそうに喉を鳴らし始めた。 「そんな顔をして下さるなんて、堪りませんね。正面玄関から廊下を通って、こちらまで入らせて頂きましたよ。どうです?マナーも十分でしょう?」 ネコはそう言うと、音も立てずに僕の座るベッドに飛び降り、そのまま、床に着地した。 それから、先生の方に向かって、尻尾をピンと立てながら歩き始めた。 「あぁ、ネコ、待っていたんだよ。」 先生は窓枠に手をついたまま、体を捻らせてネコに向かい合った。 「おや、珍しい事もあるのですね。それはつまり、やっとこちらの話を飲んで頂けたと言う事ですか?それとも、別の要件で?」 「いや、ネコの話に乗る事にしたよ。新しい代表が決まるまで、俺が代理を引き受けよう。」 「それは何よりです。流石にあの方の御子息なだけはありますね。話の解る方で良かった。早速ですが、明日、元老会議があるのです。御出席願います。」 「分かった、いいだろう。けれど、俺からも一つお願いしたい。そこに居る森君を代理補佐に選出したい。」 「なんと仰いました?」 ネコがこちらを振り返った。 丸かった目が細くなる。 「あの人は好きません。」 面と向かって、好きじゃないと言われた。 別にいいよ。僕もネコのこと好きだと思って居るわけじゃない。 けれど、役職ってネコの好き嫌いで決まるのかと思って、呆気にとられた。 「そう言わずに頼むよ。力は俺と全く同等だ。それが飲めないというなら、この話は白紙に戻して貰いたいがいいか?」 ネコが細い目でこちらを見て居る。 めっちゃ見られてる。 無言の威圧感がある。 こんな風に、猫に値踏みされる日が来るなんて思ってもみなかった。 前回、割と結構な暴言を吐いた事に今更反省した。 多分許して貰えないだろうな。 「この間はごめん。全然事情を知らなくて、僕の命を狙って居るとしか思ってなかったんだ。それが、元老院が今、慌ただしい事になって居るなんて知らなくて、ネコが忙しく動き回ってるって事も知らなかった。ごめん。」 ネコは目を細めたままだ。 「はっきり言いましょう。太宰殿と同じ血だからといって、今のあなたに将来性を見出せません。若いというのは理由になりません。知らないのは己の罪であり怠慢です。私はあなたを好きません。」 ネコは細い目のまま、誰にも聞こえる声で僕に静かに告げた。 こう、二度も面と向かって好きじゃないと言われる事に、流石の僕も多少なりともダメージを受ける。 僕はじっと唇を噛んで、ベッドから降りると気を付けをしてお辞儀し、ネコにお願いした。 「僕が未熟なのは認めます。この間は、本当に御免なさい。けれど、僕は先生の力になりたいんです。その先生が保守派に協力すると言うなら、僕は先生を全力でサポートしたい。させて下さい。お願いします。」 僕は頭を垂れたまま、一思いに全部告げた。 僕は自分の爪先を見続ける。 果たしてネコはどんな反応を示すだろうかと思うと、緊張して仕方なかった。 僕は二度目の謝罪の前に、瞬間的に心を入れ替えていた。 僕が先生のサポートをするという事は、僕の存在を保守派に認めて貰わなくてはならない。 保守派に認めてもらう事、すなわち、ネコに認めて貰う事なのだ。 これは遊びじゃない。 ほんの少しの期間といえど、吸血鬼の政治の世界に関与するのだ。 代理補佐だからと言って、気を抜いたり間違いがあったりしては決してならない。 しかも今は確変期で今後を左右する重要な時期と言っていい。 老中の席を狙うならず者から、正しい指導者が見つかるまで最後まで必ず席を守り抜かなければならない。 とても重要な役割を担うのだ。 ネコが簡単に首を縦に振る訳が無いのだ。 僕はそれを二度目の謝罪の前に、瞬時に感じ取り悟っていた。 僕には、吸血鬼のアレコレは解らない。 正直、元老院がどうなろうと本音は僕にはどうでもいい。 けれど、僕には誰にも負けてはいけない事が一つあった。 先生に対する親愛だ。 これだけは、絶対に誰にも負ける訳にはいかなかった。負けはしない。 だから僕は、ネコに頭を下げた。

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