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第137話
137.
今日も学校帰りに、僕は先生の家に寄っていた。
先生と一緒に居たい、っていう理由は当たり前にあるんだけれど、もう一つ、アンの事が心配だったからだ。
どうも調子が悪そうで、少しでも一緒に居てあげないといけない気がしていた。
そして、今日は先生の家の玄関を開けると、部屋の中は大変なことになっていた。
玄関を開けた瞬間に、部屋に入るまでもなく扉の奥から煙草の臭いが流れてきたからだ。
普段先生が煙草を吸っているのを見た事がない。
そして、留守番をしていたのはアンだから、犯人を想像するに容易い。
先生と二人して、バタバタと靴を脱ぎ捨てて部屋の中に入ってみれば、予想通りの展開で、向こうのソファに座っているアンはプカプカと煙草を吹かしている最中だった。
「アン、これどうしたの。」
僕は第一声に質問を投げていた。
いつの間に煙草を買っていたのかという疑問の他に、今日一日、どれだけの量の煙草を吸っていたのか心配になった。
「あら、お帰りなさい。うーんそうね、丁度一箱空になるところかしら?」
「ひとはこぉ?!」
一箱って、それってかなりヘビースモーカーな部類に入るんじゃなかろうか?
いや、そうでもないのか?
それが普通の量なのか?
吸わない僕には全くわからない世界だけれど、これだけは断言できる。
煙草は体に毒だ!
先生が換気扇を回して、窓を開け放っているのに気付きながら、僕はそれを手伝う事なく、まずはアンに詰め寄った。
アンから許可を得る事もなく、真っ先にアンの隣に腰を降ろし、アンの手を捕まえて吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。
「ちょ、何するのよ!」
「何って火を消したんだよ。アン、なんでこんなに煙草を吸ってたの。」
「暇だからに決まってるじゃない。何であなたに注意されなきゃならないのよ。そんなのわたしの自由でしょ?」
睨みつけるアンの手を握り締めたまま、僕は怯まず応戦する。
「自由じゃないよ。ここは先生の部屋だよ?先生はタバコを吸わない人なんだよ?それをこんなに煙だらけにしていい訳ないでしょ。先生は保険の先生なんだから、体からタバコの臭いをさせる訳にいかないのは、わかるよね?こんなに煙が充満したら先生の持ち物全てにタバコの臭いが着くのもわかるよね?だから駄目だよ。」
「なによ。鬼の首でも取ったように偉そうにして!随分な物言いじゃないの!家賃だって一応折半で太宰くんに渡してるのよ!煙草だって自分のお金で買ってるの!それに、煙草は太宰くんが買ってきてくれたものなのよ?それをどうして、そこまで責められないといけないのよ?」
「えっ、そうだったの?」
「そうよ。そんなの大人として当たり前でしょう。見くびらないで頂戴。」
僕はそんな事実を知らなくて、言い淀んでしまった。
だって家賃の事は別にして、先生がアンの為に煙草を買ってきてるなんて、そんな事、予想出来なかったよ。
先生は煙草を吸わないから、協力してるだなんてまるで思わなかった。
一連の会話を向こうで聞いていた先生が声を掛けてきた。
「アン。今回は王子の言う通りだよ。俺は高校の保健師だからな。職業柄、生徒の喫煙を注意しなければならない立場の俺の体から、煙草の臭いをさせる訳にはいかないよ。」
「なによ。太宰くんまでそんな事言うの?わたしの愉しみを取り上げようっていうの?一歩も外に出られない生活なのに、少しくらい許してくれたっていいじゃない。寄ってたかってわたしを責めて、何が楽しいのよ。血も吸えない。煙草も吸えない。じゃあ、一体何を吸えばいいっていうの!」
アンがギリギリと奥歯を噛み締めながら、唸った。
僕はそんなアンの手をそっと握りなおす。
何故なら、振り解かれなかったからだ。
アンがそれを許すなら、僕は出来るだけアンに寄り添ってあげたいと思った。
アンは、ただ単に血が欲しい訳じゃない。
必要な過程を得て、血を啜るという一連の流れが必要なのだ。
それはきっと、人肌が恋しくなるのと似ているのではないか、と思った。
僕は握った手を離さずにアンの様子を確認する。
アンが僕に力を使って迫った日の事を思い返した。
いつもあんな風に血を啜っていたとしたら相手との距離はとても近い事になる。
「アン、君はいつもどうやって血を啜ってたの?教えて。」
「何なのよ?そんなの今はどうだってい・・・。」
「良くない。」
僕がアンの手をそっとこちら側に引き寄せると、僅かにアンが体のバランスを崩す。
その瞬間を逃さずアンの体をこちらに引き込むと、思った通り僕の体の上にアンが倒れこんできた。
僕は構わずにアンの体を支えるようにして、アンの腰に手を回した。
「ねえ。こんな風に抱き込まれるようにして、いつも血を啜っていたの?それとも、アンが相手を抱き締めながら啜ったの?」
僕は体をずらして、アンの顔が自分の肩に触れる位置に誘い込む。
僕の血はアンには毒になるから吸わせる事は出来ないけれど、擬似的な動作で気持ちを落ち着ける事が出来るのだとしたら、僕は幾らでもアンの吸血相手の代わりになってもいいと思ったのだ。
「離しなさい!そもそも私の相手は男じゃないわ!女性なのよ!こんな事して只では済まさないわ!」
「ごめん、そうだったね。そこは我慢してよ。僕は男だけど、僕ならアンは安心して触る事が出来るでしょう?ね。」
僕は抵抗しようとするアンの腕を僕の背中に回させた。
「今度血を飲むのはいつ?その時は、今僕らがこうしてるようにしながら、アンは血を飲めばいいよ。独りで飲むから不味いんだよ。こうしていれば僕はアンの顔も見えないよ。僕がついてるよ。大丈夫だよ。」
アンの耳元で、僕は出来るだけ優しく説き伏せる。
すると、アンから徐々に力が抜かれていくのが解った。
それから、アンも僕の耳元で、僕の問いに答え始めた。
「私の相手はね。大体私が抱き締めてあげるのよ。すると凄く嬉しそうに微笑むわ。肌も美しい桃色に染まるのよ。本当に綺麗なの。だから私は、そんな綺麗な彼女達の熱い血が好きなのよ。」
僕はアンの腰に回した腕をどけると、アンの頭を撫でた。
「そう、それなら僕を抱き締めながら啜るといいよ。アンが飲んでいる間、ずっと一緒に居るからね。」
アンからの返事はそこで途切れてしまった。
けれど、僕の背中にゆっくりとアンの細い腕が回された。
僕はアンの頭をふわりと撫でていく。
きっと僕も、先生の血を啜る時、隣に先生が居なかったら安心する事は出来ないし、口寂しくなるのだと思う。
やはり血さえあればそれで良いという訳じゃない。
相手あってこその血なのだから。
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